【即興詩】水平線のあっち側

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水平線のあっち側に果てがあると信じていた頃、
僕の意識はまだ海とおなじで、波間をゆったりと泳ぎながら、
しきりに砂浜の両親を振り返る。
クロールであっち側の果てまで泳いでいけると、
僕の身体、意識、太陽、それら全部が海だった。
やがて、海の底に脚が届かなくなったとき、
振り返った砂浜はもうさっきとは違う風景で。
結局、僕は水平線のあっち側の果てを知ることはできなかった。
そうして、今、僕は海を眺めている。
変わったのは、海ではなかった。
沖合いに停泊しているタンカー船、彼ら船乗りたちが、水平線のあっち側に消えていくのを知っている今、僕は昔日、振り返った砂浜が違う風景であったこと、その意味の知とともに、海と訣別した。
まるで、母胎との永遠の別離のように。

【映画】共謀者

はじめに

 黒幕がごく自然な登場人物を演じながらも、最後にその正体を露わにして、それまでの過程を覆すという手法は、名作「ユージュアル・サスペクツ」を持ち出すまでもなく、サスペンス映画ではよくあることだ。さらに、アウトローな犯罪者が義理と人情に弱く、自分自身が社会の屑であることを自覚しながらも、最低限、ここを越えてはならないというルールを自分の中に定めているというのも、レイモンド・チャンドラーの探偵小説群を持ち出すまでもなく、古典的なアウトロー像だろう。2013年6月に公開されたキム・ホンソン監督による、実際の臓器密売をもとに製作された本作「共謀者」には、救いというものがない。古典的なサスペンス映画の手法をとりながらも、犯罪者であるアウトローたちの情けと義理に絡んだ善意は、徹底的に裏切られ、黒幕は最後まで胡座をかいたままだ。サスペンス映画における黒幕は、謂わば、神の視点を擁している。おそらく、本作における神は、悪魔と言い換えても過言ではない。権力と金に憑依された悪魔は、いつの時代も、私たちの知らない闇社会で高笑いし続けるものだ。心を持ってしまったアウトローな犯罪者たちは、その闇社会では、裏切られ、抹殺される他ない。それがこの世界の虚しい現実なのだろう。映画「共謀者」は、その真実を痛切に突きつけてくる。

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【エッセー】人生の黄昏において

 人生の黄昏を知った人間は、名残惜しいような諦念と、覚悟の間で揺れ動く。生への名残惜しさとは、彼が人生において何を行為したか、何を獲得したか、つまり、彼の記憶に残存している何に未練があるかではなく、彼が何を行為できなかったか、何を獲得できなかったかという、ありえたかもしれない違う人生、可能性への未練だろう。しかしながら、結局、彼はあらゆる事柄を諦め、この人生を生きるしかなかった偶然性を受け入れて、覚悟を決める。言うまでもなく、それは、死の覚悟だ。不思議なのは、人生を諦念し、覚悟を決めると、死は、死の側から誘惑してくることだ。彼は、自身の死が確実に前方で待ち構えている事実を受け入れると、今度は逆に、その死を期待するようになる。つまり、死とは何か、死ぬとどのような現象が自分の身に起こるのか、ということを早く知りたいと思い始める。その深淵を早く覗き見たいと、強く願う心境に変化するのだ。それが、死の誘惑である。

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【映画】嘆きのピエタ

韓流ブームと韓国映画

 2004年に日本で放映された韓国ドラマ「冬のソナタ」は絶大な人気を博し、その後の韓流ブームの発端となった。とりわけ、主演俳優のペ・ヨンジュンは、数多くの熱烈な女性ファンを日本各地に生みだし、「ヨン様ブーム」という社会現象にまでなった。しかし、あれから十年あまりが経った現在、「韓流ブーム」という言葉の浮遊は去ったと思われる。要するに、韓国ドラマが日本において、日常となったのだ。

 この流れはテレビドラマには及ばないまでも、映画にも反映されている。日本の大都市であれば、映画館で韓国映画がリアルタイムで上映されるようになったし、DVDのレンタルショップへ行けば韓国映画のコーナーが常設されている。しかしながら、邦画と洋画、韓国映画、そして、他の国々の映画という区分に着目してみると、韓国映画という区分はやや独立し過ぎているように思われる。洋画という区分には、ロシアや東ヨーロッパを含めた広義のヨーロッパ映画と、アメリカ映画が入り混じっている。ところが、韓国映画は、他のアジア諸国の映画から区分されており、独立している。これが、経済発展的要因に基づいているのか、それとも、歴史的経緯に基づいているのか、あるいは、全く別の要因なのかは定かではない。そして、近い将来に、洋画という区分のように、韓国映画もまた、アジア映画という区分に収斂されていくのかどうかも分からない。しかし、近くて遠い国といわれてきた韓国が、コンテンツの領域では、日本人にとって身近なものになったことは確かだろう。

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【エッセー】昭和の終焉までに

 母方の祖母が他界したのは、確か、五年前だったと思う。亡くなるまでの入院期間が長すぎたため、その死はどこかあっけなく感じられた。実際、祖母の死に目に立ち会えたのは、親族のうち、ニ、三人だった。あの日のことを少しばかり思い出すと、私はちょうど故郷の山口県周南市に帰っており(私の三十代はそのほとんどが引越しの連続だった)、出先で祖母の危篤を知り、用事が済むと、祖母が入院している病院へ直行した。病室へ入ってみると、親族が誰一人いない。祖母が危篤だというのに、親族が誰一人いないことを私は訝しみ、実家に電話してみると、家族で夕食中だという。私は呆気にとられたと同時に、電話口の母に怒鳴りつけた記憶がある。自分の母が危篤なのに、何をしているのかと。その後、私はもう一度病室へ戻り、危篤状態の祖母に何かを語りかけた。そのとき、祖母の目が開いたのか、あるいは、祖母が微かな声で言葉を発したのか、どちらだったか忘れてしまったが、祖母が何らかの反応を示したことは、はっきりと覚えている。その夜、大正七年生まれの祖母は九十歳で息を引き取った。

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【詩】ウシガエル君

幼少の頃、僕は友人たちが牛蛙の肛門に爆竹を挿入して点火するのを見ていた。
誰かが点火した後、導火線を火が伝っていく。
その時間は、僕の話し声が僕の耳に伝わる、マ、ほどにもどかしい。
ようやく、牛蛙は破裂したけれど、僕はその瞬間を目撃し損なっている。
いつだって、同じだ。
僕が見たいもの、知りたいものは、常に、遅れてやってくる。
出来事と、目撃と、無意識の錯綜よ。
やっと、牛蛙の死骸を見た後で、僕はそれに名前を付ける。
さようなら、嘗て、存在していたものよ、ウシガエル君。

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【書評】トルーマン・カポーティ/無頭の鷹――雨乞いの神の子たち

 雨は降らないかな?

 ニューヨークの街角に店を出している花屋の屋台に群がる女の子たち、彼女らが空を仰いで雨を乞う場面が象徴しているように、トルーマン・カポーティの短編小説「無頭の鷹」は、都会を灰色に染める雨を巡る小説といっても過言ではない。雨は通りを行き交う人びとに傘を開かせ、俯瞰的に人びとから顔を剥奪する。それは固有名の消去といっても良いだろう。名前なんて勝手につけられるでしょ、とD・Jはヴィンセントに向かっていう。実際、ヴィンセントとD・Jは互いに名前を知らないまま、数日間をヴィンセントのアパートで過ごす。やがて、ヴィンセントはクレイジーなD・Jを部屋から追い出すことになるが、D・Jのトランクをドアの向こうに運び出す場面で、男の子が執拗に「おじさん、何をしているの?」と繰り返す。この台詞は、二人が同一人物であることの黙示として読むことも可能だ。二人が同一人物であることを鑑みると、二人の関係にとって名前は必要ない。そして、二人を同一人物たらしめているのは、雨である。この小説において、雨は相互を映し出す鏡のカーテンの暗喩として機能している。つまり、二人は相手の姿を見ながら、実のところ、鏡に映った自分の姿を見ているにすぎない。

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