【即興詩】水平線のあっち側
【映画】共謀者
はじめに
黒幕がごく自然な登場人物を演じながらも、最後にその正体を露わにして、それまでの過程を覆すという手法は、名作「ユージュアル・サスペクツ」を持ち出すまでもなく、サスペンス映画ではよくあることだ。さらに、アウトローな犯罪者が義理と人情に弱く、自分自身が社会の屑であることを自覚しながらも、最低限、ここを越えてはならないというルールを自分の中に定めているというのも、レイモンド・チャンドラーの探偵小説群を持ち出すまでもなく、古典的なアウトロー像だろう。2013年6月に公開されたキム・ホンソン監督による、実際の臓器密売をもとに製作された本作「共謀者」には、救いというものがない。古典的なサスペンス映画の手法をとりながらも、犯罪者であるアウトローたちの情けと義理に絡んだ善意は、徹底的に裏切られ、黒幕は最後まで胡座をかいたままだ。サスペンス映画における黒幕は、謂わば、神の視点を擁している。おそらく、本作における神は、悪魔と言い換えても過言ではない。権力と金に憑依された悪魔は、いつの時代も、私たちの知らない闇社会で高笑いし続けるものだ。心を持ってしまったアウトローな犯罪者たちは、その闇社会では、裏切られ、抹殺される他ない。それがこの世界の虚しい現実なのだろう。映画「共謀者」は、その真実を痛切に突きつけてくる。
続きを読む【エッセー】人生の黄昏において
人生の黄昏を知った人間は、名残惜しいような諦念と、覚悟の間で揺れ動く。生への名残惜しさとは、彼が人生において何を行為したか、何を獲得したか、つまり、彼の記憶に残存している何に未練があるかではなく、彼が何を行為できなかったか、何を獲得できなかったかという、ありえたかもしれない違う人生、可能性への未練だろう。しかしながら、結局、彼はあらゆる事柄を諦め、この人生を生きるしかなかった偶然性を受け入れて、覚悟を決める。言うまでもなく、それは、死の覚悟だ。不思議なのは、人生を諦念し、覚悟を決めると、死は、死の側から誘惑してくることだ。彼は、自身の死が確実に前方で待ち構えている事実を受け入れると、今度は逆に、その死を期待するようになる。つまり、死とは何か、死ぬとどのような現象が自分の身に起こるのか、ということを早く知りたいと思い始める。その深淵を早く覗き見たいと、強く願う心境に変化するのだ。それが、死の誘惑である。
続きを読む【映画】嘆きのピエタ
韓流ブームと韓国映画
2004年に日本で放映された韓国ドラマ「冬のソナタ」は絶大な人気を博し、その後の韓流ブームの発端となった。とりわけ、主演俳優のペ・ヨンジュンは、数多くの熱烈な女性ファンを日本各地に生みだし、「ヨン様ブーム」という社会現象にまでなった。しかし、あれから十年あまりが経った現在、「韓流ブーム」という言葉の浮遊は去ったと思われる。要するに、韓国ドラマが日本において、日常となったのだ。
この流れはテレビドラマには及ばないまでも、映画にも反映されている。日本の大都市であれば、映画館で韓国映画がリアルタイムで上映されるようになったし、DVDのレンタルショップへ行けば韓国映画のコーナーが常設されている。しかしながら、邦画と洋画、韓国映画、そして、他の国々の映画という区分に着目してみると、韓国映画という区分はやや独立し過ぎているように思われる。洋画という区分には、ロシアや東ヨーロッパを含めた広義のヨーロッパ映画と、アメリカ映画が入り混じっている。ところが、韓国映画は、他のアジア諸国の映画から区分されており、独立している。これが、経済発展的要因に基づいているのか、それとも、歴史的経緯に基づいているのか、あるいは、全く別の要因なのかは定かではない。そして、近い将来に、洋画という区分のように、韓国映画もまた、アジア映画という区分に収斂されていくのかどうかも分からない。しかし、近くて遠い国といわれてきた韓国が、コンテンツの領域では、日本人にとって身近なものになったことは確かだろう。
続きを読む【エッセー】昭和の終焉までに
母方の祖母が他界したのは、確か、五年前だったと思う。亡くなるまでの入院期間が長すぎたため、その死はどこかあっけなく感じられた。実際、祖母の死に目に立ち会えたのは、親族のうち、ニ、三人だった。あの日のことを少しばかり思い出すと、私はちょうど故郷の山口県周南市に帰っており(私の三十代はそのほとんどが引越しの連続だった)、出先で祖母の危篤を知り、用事が済むと、祖母が入院している病院へ直行した。病室へ入ってみると、親族が誰一人いない。祖母が危篤だというのに、親族が誰一人いないことを私は訝しみ、実家に電話してみると、家族で夕食中だという。私は呆気にとられたと同時に、電話口の母に怒鳴りつけた記憶がある。自分の母が危篤なのに、何をしているのかと。その後、私はもう一度病室へ戻り、危篤状態の祖母に何かを語りかけた。そのとき、祖母の目が開いたのか、あるいは、祖母が微かな声で言葉を発したのか、どちらだったか忘れてしまったが、祖母が何らかの反応を示したことは、はっきりと覚えている。その夜、大正七年生まれの祖母は九十歳で息を引き取った。
続きを読む【書評】トルーマン・カポーティ/無頭の鷹――雨乞いの神の子たち
雨は降らないかな?
ニューヨークの街角に店を出している花屋の屋台に群がる女の子たち、彼女らが空を仰いで雨を乞う場面が象徴しているように、トルーマン・カポーティの短編小説「無頭の鷹」は、都会を灰色に染める雨を巡る小説といっても過言ではない。雨は通りを行き交う人びとに傘を開かせ、俯瞰的に人びとから顔を剥奪する。それは固有名の消去といっても良いだろう。名前なんて勝手につけられるでしょ、とD・Jはヴィンセントに向かっていう。実際、ヴィンセントとD・Jは互いに名前を知らないまま、数日間をヴィンセントのアパートで過ごす。やがて、ヴィンセントはクレイジーなD・Jを部屋から追い出すことになるが、D・Jのトランクをドアの向こうに運び出す場面で、男の子が執拗に「おじさん、何をしているの?」と繰り返す。この台詞は、二人が同一人物であることの黙示として読むことも可能だ。二人が同一人物であることを鑑みると、二人の関係にとって名前は必要ない。そして、二人を同一人物たらしめているのは、雨である。この小説において、雨は相互を映し出す鏡のカーテンの暗喩として機能している。つまり、二人は相手の姿を見ながら、実のところ、鏡に映った自分の姿を見ているにすぎない。
続きを読む