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【書評】フェルディナント・フォン・シーラッハ短篇集『犯罪』を読んで

事件においては誰もが犯人でありうる

 数年前に話題になった、ドイツ人作家フェルディナント・フォン・シーラッハの処女短篇集『犯罪』を、一篇ずつゆっくりと読んだ。短篇集というのは、一度通読したものは別として、一息に読むのが難しい。それが、短篇の名手なら尚更のことだ。短篇小説では多くの事柄が省かれる。あるいは、意図的に隠蔽される。ポーの短篇小説は少し異なるが、基本的に、短篇小説には説明がなく、換喩によって事柄が表現される。短篇小説の名手ほど、その方法が巧みであり、読者は、作家によって意図的に置き換えられた何かを、読後にじっくり考える必要があるだろう。その意味で、優れた短篇集を一息に読むのは、とても難しいことなのだ。

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【音楽】尾崎豊「卒業」にみる歌声の変遷

早熟さと時間の感覚、27クラブ

 早熟な才能というのは、ときに、悲劇的な結末をその人に与えることがある。例えば、若くしてスターダムにのし上がったロック・スターたち。その中の幾人かは、生を駆け抜けながら若さを爆発させた後、全エネルギーを使い果たしたようにこの世を去っていく。ある人は生への絶望から自死し、ある人は才能の枯渇からアルコールやドラッグに耽溺してしまうことによって。悲劇的な結末、と先述したが、それは若くして逝去したロック・スターたちを端から見ている私の想像であって、彼ら自身は、おそらく、私のような凡人とは時間の感覚がまったく異なっており、彼らなりの生を完うしたに違いない。彼らは生を瞬く間に疾走するが、それは、時間が速く過ぎ行くのではない。逆だ。彼らの時間感覚は間延びしたように遅く、それ故に、彼らは、私からするとその短い生涯の間に、才能を多く発揮させて、様々な偉業を残して去っていく。それはあたかも、宇宙理論における双子の法則のようだ。つまり、光速移動する宇宙船に乗っているのは私たちであり、私たちが暢気に宇宙遊泳を楽しんでいる間に、彼らは地球上において、その短い生涯に才能のすべてを費やす。そして、私たちが意気揚々と地球上に降り立ったとき、もうそこには彼らは存在しておらず、その偉業だけが残されている。少々、大袈裟な喩えだが、若くして逝去していく早熟な才能の持ち主にとって、時間感覚というのはそのようなものではないだろうか。

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【音楽】尾崎豊/永遠の胸

 印象的なギターソロから始まる尾崎豊の「永遠の胸」は、1990年にリリースされた20代の尾崎豊の集大成ともいえる二枚組アルバム『BIRTH』に収められている楽曲である。7分47秒という楽曲の長さもさることながら、その雄大なメロディーラインと、少しの切実さと憂いの入り混じったダイナミックなボーカル、これらが調和されたスケールの大きな一大叙情詩のような楽曲となっている。尾崎豊といえば、10代の間に3枚のアルバムをリリースし、その反抗的な歌詞によって、デビュー時から若者のカリスマ、若者の教祖などと、マスコミに半ば揶揄され、半ば称賛されていたシンガー・ソングライターだが、20代に入ってからの楽曲群はそれほど評価されていない。ここで尾崎豊について語る気はないが、20代の尾崎豊の楽曲の素晴らしさを、少しでも紹介できればと思っている。

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【音楽】中島みゆき/時刻表

 中島みゆきの楽曲群の中に、ひっそりと佇んでいる名曲がある。「時刻表」という曲だ。中島みゆきの歌声もどこか淋しげではあるが、ありふれた人間像を歌いながら、自身もまたありふれた人間のようである歌い手の絶望的な淋しさが木霊するような曲である。サビの部分で唐突に「海」という言葉が出てくる。絶望的な淋しさを示唆した後に歌われる「海」は、ある意味では、自殺という行為の外示として解釈することもできる。曲は歌い手が時刻表を見上げて、次の朝まで海へ行くのか行かないのか(あるいは、行ったのか行かなかったのか)、結末を曖昧にしたまま終わる。

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【書評】「飛び降り」「幽霊」――『セックスの哀しみ』より/バリー・ユアグロー

はじめに

 超短編の名手、バリー・ユアグローの著書に『セックスの哀しみ』という超短編集がある。セックスに纏わる人間の悲哀を、ときには直截的に、ときには隠喩的に、ユーモラスに描いてみせる、そんな超短編集だ。その本の中に、「飛び降り」と「幽霊」という二つの超短編がある。題名から「死」を連想させるが、バリー・ユアグローは「死」をモチーフにした超短編も多いし、「死」を探求してきた小説家だといってもいい。ユーモアとは静謐さと若干の秘密を必要とする。「死」は、人間にとってもっとも静謐で、秘密めいている。

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【エッセー】真夜中のプールと青春と自由であること

 村上龍の処女作、『限りなく透明に近いブルー』の中に、主人公である僕とリリーがラリった状態で、雷雨の中のトマト畑を這いつくばるシーンがある。二人はラリっているため、トマトを爆弾だと言い張ったり、トマト畑を海と錯覚したりする。このシーンは、ドラッグによる錯乱を表現しているが、錯乱状態ゆえに、主人公の僕はプールに飛び込むことができない。リリーの発した、「あなた、死んでしまうわよ」という言葉が示唆するように、この小説は、ある一線を越えることができなかったがゆえに、小説として成立することができるのだ。後に、村上龍自身が語っているように、小説とは、ぎりぎりのある一線を越えることができなかった人間が書くのだろう。本物のジャンキーは小説を書かない。

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【映画】イヌミチ

はじめに

 2014年3月に公開された万田邦敏監督の映画「イヌミチ」は、セックスシーンのないロマンポルノという謳い文句のとおり、イヌと飼い主という主従関係を、サディストとマゾヒストの関係性に置き換えた、観念的なセックスをテーマとした映画である。ただ、「セックスを介在しない男女の肉体関係は、イヌと飼い主という関係性だけかもしれない」という思索には、やや、疑問がある。ここで言われている「肉体関係」が、肌と肌の「ふれあい」程度の肉体関係であるならそれは理解できるが、官能的な男女の「肉体関係」は、やはり、日常生活においては隠されている、あの陰部と陰部の密着以外にはありえないのではないだろうか。それでも、この映画は、官能性の表現という意味では成功している。もちろん、観念的な意味として。

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