【エッセイ】釣りについて
釣りという行為には何かしら考えさせられるものがある。その行為は釣りをしない人々が一般的に抱くイメージとはかけ離れている。凡その釣りをしない人々がそれに抱くイメージは、照りつける太陽の下、老若男女が海を呆然と眺めながら、竿から釣り糸を垂らしている間延びしたイメージだろう。そのイメージは釣り人の受動的な身体拘束性を想起させるに違いない。
続きを読む【映画】「シン・ゴジラ」〜初代「ゴジラ」へのオマージュとして
【先の戦争と戦後の境としての初代「ゴジラ」】
庵野秀明監督の話題作「シン・ゴジラ」は、はっきりいってしまえば、諦めの映画である。もっといえば、祭りのあとですらある。それは庵野監督自身が一番知っているに違いない。
庵野作品をほぼ観ていない私は、庵野監督の手法をどうこう語れる立場にない。しかしながら、初代「ゴジラ」を観れば、「シン・ゴジラ」がそれのオマージュとなっていることは明らかだろう。後者においても、ゴジラは凍結されたまま、死ぬことなく映画は終わる。歴代の「ゴジラ」においても、ゴジラは決して途絶えることがなかった。それが意味するものは何か。なぜ、ゴジラは続いてきたのか。映画「ゴジラ」シリーズを考えるとき、そこを素通りすることはできない。
続きを読む【音楽】浜田省吾の左派性にみる80年代日本とアメリカ
浜田省吾は1952年、広島県竹原市に生まれている。浜田が自身の楽曲に政治色を出し始めたのはアルバム『Home Bound』からだが、所謂、「政治の季節」からすると、浜田は年少派ということになるだろうか。政治的な活動としては、1971年にアメリカが遂行するベトナム戦争に後ろから加担しながらも、広島平和記念式典に出席した佐藤栄作首相の矛盾を糾弾する反対運動に参加している(Wikipediaより)。『Home Bound』以降の政治色を出した楽曲が示しているように、浜田省吾という人物を左派・リベラルと規定してもいいはずだ。ちなみに、Wikipediaによると、浜田の父親は保守思想の持ち主だったらしい。
1986年にリリースされた『J.Boy』という二枚組のアルバムの中に、「AMERICA」という楽曲がある。浜田省吾というシンガー・ソングライターは、基本的には、少しテンポを遅くしたエイト・ビートの楽曲をもっとも得意とすると私は思っている(例えば、「夏の終わり」等)。意外だが、「遠くへ ~1973年・春・20才~」は、当初、テンポの速いエイト・ビートだった。
話を戻そう。浜田省吾の「AMERICA」という楽曲はその歌詞を丹念に読めば、高度経済成長期から85年のプラザ合意を克服し、経済成長を邁進する日本とアメリカの両姿が浮かび上がってくる。一例を挙げるならば、トヨタ自動車が80年代後半に、アメリカ人にボコボコにされるニュース映像を観た人は多いはずだ。しかし、トヨタ自動車はアメリカに工場を建て、現地のアメリカ人を雇用することでそれを克服した。端的にいえば、「AMERICA」という楽曲の歌詞はそれらの直前、84年に東京を離れてアメリカに渡った日本人の男と、ニューヨークでダンサーになることを夢みていた女の喪失が歌われている。
男と女はそれぞれの想いを抱いて東京を離れ、アメリカの西海岸に渡った。映画の中のアメリカン・ドリームを夢みて。しかしながら、男は東京を離れて渡航したアメリカ西海岸で、鏡に映った日本人としての自分自身を見る。帰る故郷を喪失した自分自身の姿を。彼はアメリカに居ながらにして、東京に居るままの日本人としての自分自身を見つけてしまった。ここで重要なのは、彼が帰る故郷を喪失していることだ。東京を離れてアメリカに渡航したものの、そこにあったアメリカは、故郷、日本の東京と同じ風景だったのだ。つまり、男にとって、東京とアメリカ西海岸は何も変わらない風景だったわけだ。楽曲のサビ部分で、「We are looking for AMERICA」と浜田省吾は歌う。「映画の中のアメリカン・ドリーム」を夢みていた女の喪失とともに。この女の喪失感を比喩的に表現しているのが、モーテルの軋むベッドの上で、「“もっと強く抱いて” と震えてたあの娘」という歌詞だろう。
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