【ノート】逃走=闘争論(仮名)のための草稿、ノート01

あるひとつの場所に馴染むと、その途端、その場所が窮屈で嫌になってしまう。この傾向はもう中学生くらいの昔から自覚があり、これまでの人生において、私はさまざまな場所、あるいは、関係性から逃げてきた。それは、あるときには学校組織であったし、あるときには会社組織でもあった。また、男女間の恋愛においても、それがあるひとつの成就となった暁には、私は非常に息苦しい何かを感じ、その関係性から自覚的に身を引いてきた。このような意味において、私の人生はある意味、逃走の連続のようなものだったと思う。そして、これからもそのような逃走は続いていくのだろう。

もちろん、これらを私の欠陥、内傷であるとすることもできる。おそらく、それが一般論であろう。しかし、自己の内傷とは何なのかを問う必要がある。言うまでもなく、それは反応だ。外部に起因する何らかの事象、関係に反応し、人は自己の内傷を持つ。個体としての身体レベルにおいても同じことは常時起こっている。例えば、外部から口経由で身体内部に薬を取り込むとする。大小の違いはあれ、どんな薬も副作用を伴う。卑近な例では風邪薬による眠気がそれだろう。そして、薬が身体にとって完全な異物である場合、胃はそれを吐き出す。浣腸という行為も同じであろう。外部から肛門経由で投与された薬に反応し、腸はそれを異物として排泄する。このように、一般論として、欠陥もしくは内傷と判断されている事物の正体とは、外界に対する反応なのであり、そして、その反応自体がある意味、一般論というそれ自体完結しているようにみえるものへのしたたかな叛乱なのだ。

あるひとつの場所ができあがるということは、端的に言えば、その場所が閉じてしまうことだ。ひとつの場所が閉じた円環になるとき、そこにひとつの規則体系(ルール)が発生する。究極的には、私自身の存在自体がひとつの規則体系でもある。それらの規則体系から如何に外部への逸脱、逃走が可能かというテーマに則って私はこの草稿を書いているわけだが、しかし、逃走というテーマは、もしかしたら現代に生きる人間の主要なテーマでもあるかもしれない。普通に考えれば、今後世界は確実にグローバリズムによって閉じる。世界がグローバリズムによって閉じてしまうということは、言い換えると、外部なき世界に到るということだが、そのような外部なき閉じた世界の中で一体どういうことが起こりうるのかということを完璧に想像することは難しい。完璧に想像することは難しいが、過去から現代にいたるまでの歴史、及び、様々な共同体の変遷と照らし合わせてみれば、抽象的に想像することは可能かもしれない。

閉じられた円環の中で戯れることに快感を見いだす人間が大多数なのは理解できるし、それは普通のことだろう。殊に日本人はそのような円環を作り出すことに長けていて、その中での戯れが上手い。別にそれはそれでいいとは思う。ただし、ひとつの場所が閉じたとき、その中で何が起こりうるのかは、現代日本社会に蔓延る諸問題がある意味それを証明しているのではなかろうか。私は日本社会の閉塞感を嘆いているわけではない。しかし、それは各々が持つ、各々の欠陥なり、内傷なりを浮き彫りにしている。反応、叛乱は既にいたるところで起こっているのだ。

逃げることを知らない人間は実は多い。また、いつの頃からか、逃げるということは卑怯なことだという教えが我々の中には内面化されてきた。それは閉じた場所を維持するための口実だろう。それはそれでいいとも思う。人間は共同体なしでは生きることができないものだからだ。しかし、逃げることが生きる術であることをもっと多くの人間が自覚してもいいのかもしれないとも思う。そこかしこに林立する柱をすり抜けるようにしながら、どこにもとどまらずにひたすら逃げるという生き方もある。私自身は今後もこういう生き方を続けると思うが、もしかしたら、今生きることが困難な人たちにとってこういう生き方は参考になるかもしれないとふと思った次第である。そして、私は、私自身のために、逃走=闘争の言説を企てなければならないと思い立ち、草稿としてここにノートしておく。それが遁走になってしまわないように。

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