【ノート】逃走=闘争論(仮名)のための草稿、ノート02

この我々の宇宙が仮に無限だとする。つまり、ビックバン時のエネルギーが無限に時空(時間と空間)を押し広げていき(膨張)、永遠に縮小しないイメージ。もちろん、無限をイメージすることなど不可能である。よって、この我々の宇宙が無限である可能性を一旦ここでは無視しておく。

では、この我々の宇宙が有限である場合。特殊相対性理論だったか、あるいは一般相対性理論だったか、そもそも相対性理論に書かれていたかも調べずに適当に書いてしまうが(ノートなのでご容赦を)、この我々の宇宙が有限だった場合、ビックバン時のエネルギーも当然有限であり、ビックバン時の質量と重力の関係だったか、やがて宇宙は熱的死を迎え、緩やかに収縮へ向かい、やがてビッククランチに至る(時空の逆転)。そこから再度宇宙はビックバンへ向かうという説や、ブラックホールの増大なんて説もあるが、そんなことは私には分からない。 

何が言いたいかというと、我々の宇宙が有限である場合、エネルギー、質量ともに有限であるのだから、結局のところ、革新とか新しいものとかそういうものは、この有限である宇宙の中での物質(単位をどこまで小さくするかはここでは問わない)の組み換え程度にしか過ぎないのではないかと。簡単にいってしまえば、パーツの量は限られているのだからその中でより良いものを組み換えていきましょうというような。おそらく、言葉というものも同じなのだろうと思う。新しい言葉は出てくるが、やはりそれは既存の言葉の組み換えだったり、あるいは概念の組み換えだったりであるはずだ。 

ただし、ここで気をつけなければならないのは、「宇宙から見れば我々の存在なんて」というシニシズムである。この逃避的言説には一定の説得力があるだけに厄介なのだ。私が構想する「逃走=闘争論(仮名)」においてはシニシズムへ逃走することは真逆の逃走である。そもそもシニシズムの中に安住するならば「逃走=闘争」とはせずに遁走とでも書いておけばいい。如何にシニシズムというブラックホールに陥ることなく、「事象の地平面」という境界において、記憶や言葉、あるいは自分自身の存在までもを組み換えながら、方々をぐるぐると高速回転するように逃走=闘争できるのか。