【ノート】逃走=闘争論(仮名)のための草稿、ノート03

記憶という呪縛から解き放たれることなどあるのだろうか。病に陥ることなく、また、麻薬による一時的な健忘を利用するのでもなく。睡眠はダメだ。睡眠は夢という形で、しかも一方的に、自分に記憶を提示する。今この自分を司っているのは明らかに過去の過程だが、今この自分を規定する不快から解放される、逃走する術を探求すること。

多分、自分自身が今この自分を規定するところの不快から逃走する術はないのだろう。ドゥルーズのいう「過程の完成」こそがすべてであり、過程が何か達成や目標に向かっていくという幻想を抱いてはいけない。いつの間にか我々は今この自分になっている、そしてそこからの逃走は、何処へ向うのでもない無目的な根拠なき過程であり、言い換えれば、自由奔放に人生を創りあげる無謀な企ての過程である。

しかしながら、記憶の呪縛にはある魔法が潜んでいる。脳が一方的に夢という形で自分自身に提示するように、我々は記憶の呪縛を逆手に取り、過去の組み替えという手段を利用することができる。つまり、ありえたかもしれない未知の自分を組み立てることができる。それこそが小説の力であり、絶えず現在進行する記憶からの逃走だ。今この自分である他ない自分への不快は、絶えず現在進行で生産される記憶の呪縛から、並行的に、絶えず現在進行で逃走する他ない。そして、その逃走は何処へ向うのでもないし、何か達成や目標があるのでもない。ありえたかもしれない過去を生産しながら、ただひたすらに無目的に逃走すること。それはまた闘争でもありえる。

しかし、逃走=闘争に立ちはだかるのは何も自分自身の記憶だけではない。千坂恭二氏のいうところの「ヒエラルヒーの絶対」が我々を規定する。このヒエラルヒーの絶対から逃れ得たと思った瞬間、我々はまた新たなヒエラルヒーの絶対に絡め取られることだろう。ここを熟考しなければ逃走=闘争はない。