【書評】トニオ・クレエゲル/トオマス・マン

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トオマス・マンのそう長くはないこの小説の中には、一人の人間が如何に文学を志すようになり、文学を志す人間が如何にそうではない人間と相まみえないか、しかし、どれほど平凡に生きることに憧れそれらを愛しているか、つまり、如何に俗人であるかがすべて書かれている。一部の芸術家が自らを世俗と切り離された高貴な人間であると確信するところの欺瞞を、それがどのような種類の欺瞞であるかを密かに知りながら、つまり自身の中にその胚芽を認めながらも、小説家はそれを恥じなければならないだろう。

小説家には生活がない。しかし、小説家は生活を生きる。本文中のマンの言葉を借りるならば、小説家とは「超越的領域」と世俗とを行き来する存在である。「平凡なもののもたらす数々の快楽へのひそやかな身を灼くような憧れ」を抱きながらも敢えて世俗の一歩手前で立ち止まり、世俗の人間たちを心から愛しながらも自らは森の陰に身を潜めて彼らからの愛に素知らぬ顔をしてみせる。つまり、小説家とはイロニーの人であると同時に「道を踏み迷った俗人」以上のものではない。しかし、小説家がその創作の渦中にあるとき、そのときだけ小説家は「超越的領域」へ移行することによって世俗にしばし背を向ける。そのとき小説家は「迷える俗人」から少しばかり自由になるが、しかし「超越的領域」における創作物そのものは俗そのものである。ここに私は少しばかり小説家のジレンマを垣間見るのである。

最後に、主人公のトニオ・クレエゲルが立っている場所とは「どこでもない場所」である。それは、小説家とは「道を踏み迷った俗人」、「迷える俗人」であると同時に、「超越的領域」で暮らす人間であることを考えれば明らかだろう。どこにも止どまることなく、「どこでもない場所」から「どこでもない場所」へと綱渡りしながら、人間的なもの、生命あるもの、平凡なものへと俗人的愛情を捧ぎ続け、そうした後で残り火のように微かに胸のうちに宿る虚しさこそが、小説家にとっては最上の歓喜ともなりうるのだから。

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