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【エッセー】タクシードライバー

エッセイ

伊勢佐木町でぶらぶらと遊んで暮らしていた頃、桜木町にあった飲み屋によく通った。伊勢佐木町から桜木町までは歩いて数分の距離であり、散歩にはうってつけなのだが、その頃の私は馬鹿みたいにタクシーを利用していて、また、タクシーに乗るのが好きだった。人々がタクシーに乗る理由は、当然ながら、その利便性だろうが、私自身はタクシードライバーとの一過性の会話もその醍醐味のひとつだった。もちろん、寡黙なタクシードライバーが圧倒的に多い。タクシードライバーという職業は、客が望む場所に客を連れて行くことが仕事であって、決して、客と楽しく会話をすることが仕事ではない。タクシードライバーが寡黙であるからといって、客はタクシードライバーを非難してはならないのである。

しかしながら、饒舌なタクシードライバーというのも存在する。その饒舌さがこちらの気分と合えば、乗車は非常に和やかなものとなり、また、タクシードライバーの経験豊富な知識を得る貴重な場ともなりえる。私自身、このタクシードライバーともう少し話をしていたいと思ったことは何度もあり、それは例えば、偽装結婚の話であったり、偽装離婚の話や入れ歯を外したお婆さんによるフェラチオの話であったりと、さすがに夜の街を徘徊している人種だけにいかがわしい話のネタには尽きないタクシードライバーも多くいた。嘗てチョンの間があった黄金町に存在したという、入れ歯を外したお婆さんによるフェラチオが如何に気持ちの良いものであったかを雄弁に語った年配のタクシードライバーは今でもよく憶えている。ただし、どれだけ話題が豊富であろうと、目的地に着けば客は降車しなければならない。私はそこにタクシードライバーと客の間の儚さのようなものをみるのだった。

ある明け方、桜木町で相当酔っ払ってタクシーを探していたところ、一台のタクシーが私の前に止まった。そのタクシーは白塗りで車種からして明らかに個人タクシーであった。ドアが開くなり、私はシートに滑り込んだが、そのときの異様な車内は私を酷く驚かせた。まず、車内はお香の匂いに満ちており、そして、車内にはボブ・マーリーのアイ・ショット・ザ・シェルフが大音量で流れていたのだった。当然、そんなタクシーに乗ったのは初めてだった。タクシードライバーは髪を明るいブラウンに染めた中年の男で、決して怪しい人物ではなさそうだった。私は酔っ払っていたため、そのような車内の雰囲気に興奮し、タクシードライバーに根掘り葉掘り色んなことを訊いた。そのタクシードライバーは、いつもこんな雰囲気のタクシーでレゲエを聴きながら街を流しているらしかった。そして、私は降車時に名刺をタクシードライバーから受け取った。

それ以来、タクシーに乗るときはそのタクシードライバーに連絡し、迎えに来てもらうのが常になった。我々は車内で、レゲエの話から小説の話まで様々な会話をし、気づけばほとんど顔馴染みになっていた。ある日、そのタクシードライバーの方から電話があり、久しぶりの休日だから一緒に飲まないかと話を持ちかけられた。私はその電話では即答で一緒に飲みに行くことを伝えた。待ち合わせの場所は若葉町三丁目交差点付近だった。待ち合わせ時刻は夜の九時であった。私は九時前にマンションを出て約束の場所へ行き、しばし交差点に立っていたが、ふいに交差点近くの小さな本屋へ駆け込んだ。その本屋の窓からは交差点の様子がよく見える。九時になるとレゲエのタクシードライバーはやってきて、きょろきょろと辺りを見回していた。しかしながら、私は本屋を出なかった。マナーモードにしていた携帯電話が何度も着信を知らせたが、それにも一度も出はしなかった。九時十五分を過ぎたあたりでタクシードライバーは首を振りながら交差点を伊勢佐木町の方へ歩いて行った。私はそれを見届けると、本屋を出て、若葉町の通りからひとつ先の大岡川沿いの道を桜木町方面へと一人で歩いた。小雨の降る晩で、私はウインドブレーカーのポケットに手を入れて夜空を仰ぎながら桜木町へと一人ひたすら歩いた。私は今でもタクシードライバーというのはとても不思議な職業だと思っている。

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