【エッセー】死について

まずはじめに、無があった。と書くと語弊がある。無を存在させてしまうからだ。ビックバンは無から生じたのではない。無さえ存在しないところへ生じたのだ。それ以前に何があったのかは定かではない。ビックバン時のそのエネルギーは膨張し続け、現在に至る。一説によると、ビックバン時のエネルギーが枯渇したとき、ビッククランチと呼ばれる時空の逆回転が起きると言われている。

映画「アルマゲドン」において、ブルース・ウィリス演じるハリーが地球に衝突する小惑星を爆破させるため自らの命を犠牲にして小惑星に埋めた核爆弾のスイッチを押すシーンがある。この映画は、はっきり言えば、このシーンのためだけにあるようなものだが、ハリーがスイッチを押した瞬間、ハリーの脳内で過去の記憶が一斉にサブミリナルのようにフラッシュバックする。それはまるでビッククランチにおける時空の逆回転であるかのようだ。

私は幼少時によく夜泣きをした。当時はただ単に怖く、寂しくて泣き、親の元へ倒れこんだものだが、今よくよく考えてみると、あれには原風景とでもいうべき何かがあったと思われる。その当時私は度々亡き祖父の夢を見た。それはある意味では郷愁であった。一方で、私は何か重たい石のような物に押しつぶされるような感覚の夢もよく見た。今振り返ると無力感とでも形容できるかもしれない。おそらく、祖父の幻影と何か重たい石のようなものが私の恐怖を規定している。

作家の村上春樹は『ノルウェイの森』の中で、「死は生の対極にあるのではなく、生に内包されているのが死だ」と語った。若い頃に読んだときは感心したものだが、今、私はこう言いたい。「死は生と同義である」と。いずれにせよ、死んだ後のことは誰にも分からない。誰かを引用するまでもなく、葬祭とは生き残った者のためにあるのであり、死者には無関係だ。問題は、死後に無が在るのか、否かだ。初めに記述したようにビックバンが起こったときには無でさえなかった。我々の死は果たして無なのだろうか、それとも無でさえないのだろうか。

最後に、私は自身の死が映画「アルマゲドン」のハリーのようなものであってほしいと願う。可能ならば、そして、死の際に余力があるのなら、過去の記憶の連続をすべて見てみたいと思っている。更に、この生が夢のようなものであるのならば、死がその夢を閉じ、破壊し、無でさえない何処かへ私を連れて行ってくれることを切に願う。