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【エッセー】最後のキス

 山下公園の近くにアマゾンクラブというレストランがあった。ゼロ年代前半の頃だ。今あるのかは知らない。そこは倉庫のような造りになっており、一見さんはなかなか見つけることができない店だった。その内部にも様々な仕掛けがあり、初めて訪れる人はまるでアミューズメント・パークにでも入ったような心地だっただろう。雑多な料理を出す店だったが、その店で私が最も好きだったのはロイヤルミルクティーだった。あのロイヤルミルクティーの味には今もお目にかかっていない。

 昔、ユウコという恋人と足繁くその店に通った。当時、私は伊勢佐木町に住んでいたからユウコと山下公園まで散歩がてら歩いて、その後アマゾンクラブで夕食を済ますというのが私たちのデートコースだった。その店のロイヤルミルクティーの美味しさに気づいたのは、確か、三度目のデートだったと思う。二人とも満腹になった後、私たちはそれぞれデザートを注文した。ユウコはパフェか何かを注文し、私はロイヤルミルクティーを注文してみた。特に何の変哲もないティーポットで運ばれてきたそのロイヤルミルクティーは私を魅了した。それまで私はロイヤルミルクティーのことなど考えたことがなかったから、余計にその味に夢中になった。以来、私はユウコとその店に行く度にロイヤルミルクティーを注文するようになる。

 ユウコとは長者町にある美容室で知り合った。当時、駆け出しの美容師だったユウコは毎日受付を任されていた。私はその頃伊勢佐木町でどうでもいいような生活をしており、暇さえあればユウコ目当てに美容室へ通ったものだ。その美容室の店長の結婚式で私はスピーチをしてあげたことがあり、その縁で私が美容室にふらっと訪れても特に咎める人がいなかったのだ。ある日、伊勢佐木町にあるバラッカというバーで一人で飲んでいたとき、急に人恋しくなりユウコに「来ないか」と連絡してみた。ユウコはすぐにメールの返信を寄越してきて私たちは初めて二人きりでお酒を飲みながら色んな話をした。そのバラッカというバーでは私はバーテンと知り合いだったから好きなCDを持ち込んでそれをかけてもらっていた。ユウコと初めて飲んだときには、確か、Little TempoのRon Riddimが流れっぱなしになっていたと思う。

 その後、ユウコは私の部屋に足繁く通って来るようになり、私たちは山下公園へぶらぶらと歩きながら他愛のない話をして、山下公園のベンチで一息つき、その後にアマゾンクラブで夕食を済ませるという日々が続いた。ユウコと性的な関係を持った日をよく覚えていないが、真夏の暑い日だったと思う。私たちはクーラーがかかっているにも関わらず、大量の汗を流しながらセックスをした。記憶は曖昧だが、そのときもLittle TempoのRon Riddimを流しっぱなしにしていたような気がする。性交の後、煙草を吸いながらぼんやりとそのダブを聴いていたことは憶えている。

 その後、徐々にユウコという女は壊れ始めた。あるいは、内に秘めていた本性が露わになったとも言えるかもしれない。半年も付き合えば、女性は付き合っている男に対する緊張感を失くすものだ。それは特別なことではない。人間関係として当然のことだと思う。しかし、ユウコは少々度が過ぎた。その本性、淫乱さが過激になってしまったのだ。ある日、私に向かって「◯◯って女優のAVを借りてきてくれない?」と言い出し始めたのだ。ラブホに行けばAVが観れる時代だから、そこまでは私も特に何も思わなかった。近くにレンタルビデオ店があったから深夜に自転車で指定されたAVを借りて帰って来た。その後、私はウィスキーを飲んで少々眠ってしまった。何がきっかけで目を覚ましたのかは憶えていないが、ふとソファに目をやるとユウコがオナニーをしていた。テレビにはさっき借りてきたAVが映っていて、多分、私はAVかユウコの喘ぎ声で目を覚ましたのだろうと思う。ユウコは私が目を覚ましてもオナニーを止めなかった。それ以来、ユウコは度々私にAVを借りて来てくれとせがみ始めた。

 最初にAVを借りて来てくれと言われたとき、私はそれを拒むべきだったと今では思う。そうすれば、その後のユウコの醜態を知らずに、仲良く暮らしていけたのではないかと。しかし、他人がその心の奥底に何を秘めているのかなんて誰にも分からない。人の生は偶然性の連続だが、それが常態化したとき、まるでそれが必然的であったかのように回顧されることが稀にある。私はユウコをきっぱりと軽蔑したが、それを言い出すこともないままだらだらと付き合う日々が続いていた。そして、ある夜、久しぶりに山下公園まで歩こうという話になり、私たちはいつものデートコース、つまり、山下公園まで歩いて、山下公園のベンチで一服し、その後、アマゾンクラブで夕食を済ますという懐かしいデートをした。アマゾンクラブで適当に料理を食べ、私は以前のように最後にロイヤルミルクティーを注文した。だがその夜は初めてユウコにもロイヤルミルクティーを勧めてみた。ユウコが一口飲んだ後、「美味しい」と言葉を発したことでなんだか私が作ったロイヤルミルクティーのように私は嬉しかった。

 アマゾンクラブを出ると急にユウコがキスをしようと言い始めた。どこか適当な路地裏にユウコを引っ張り込み、人気のない場所で私たちは長い長いキスを交わした。そのキスはロイヤルミルクティーの匂いがした。多分、ユウコも同じだったのではないかと思う。その最後のキスで私はユウコとの別れを決めた。私が別れを切り出すとユウコは「わたし何か悪いことした?」などと咎めてきたが、私は「他に好きな人ができた」と適当にはぐらかした。生半可な付き合いで他人の本性などあまり知らない方がいい。人にはそれぞれ秘密というものがあり、私たちはごまかしごまかしながら日々を生きている。ありのままの自分というのは嘘だ。私たちは会う人ごとに自分を装飾して自己を演じている。その総体が人生というものだと私は思う。私はあの日ユウコに「◯◯のAVを借りて来て」と言われてほいほいと何の逡巡もなく借りて来た自分を今でも恥じている。私の行為がユウコを傷つけてしまったのだと。失ってはいけない人を失ったのだと。そして、ロイヤルミルクティーの匂いがした最後のキスを今でも時々夢にみることがある。当然だが、アマゾンクラブへはあれ以来一度も訪れてはいない。

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