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【エッセー】街路樹

エッセイ

 四時間も待たされた後だった。もちろん、明子からはそれまでに次々と遅刻を知らせるメールは受け取っていた。でも、僕はそんな理由なんて信じていなく、最後の方はメールすら確認しなかった。僕はさっきまで見ていた昨夜の夢の続きから醒め、街中を見回した。真夏の暑さの中では人も車も様々なものがスローモーションになって目に映えてくる。例えば、今、緑色のタクシーが黒の乗用車を追い抜いた。その映像が僕の脳内でスローモーション再生されるスピードと、灼熱の炉の中でガラスか何かがゆっくりと溶けていく時間は等しく歪んでいる。そんな風に街中を見回した後、僕は視線を足下に移した。踏み潰された灰色のコカ・コーラの缶がある。いまどき灰色のコカ・コーラなんてどこから持ってきたのだろうか。熱い太陽は僕の視覚だけでなく、記憶も歪めてしまったのだろうか。空を見上げてみた。六月の晴れ渡った青い空に中心を無くした太陽の破片がある。吹き上げてくる地下鉄の風がよりいっそう街を熱くさせるようだ。

 夢の続きを見ていたのだった。その夢の中で僕は見知らぬ女と一緒に廃車置場に高く積まれた古タイヤの上にいた。夜の予感が迫ってくる夕暮れ時だったはずだ。その古タイヤの横にもうひとつ高く積まれた古タイヤの山があり、夕闇の中でその輪郭は濃く、はっきりしていた。それは昔電車の中から見た夕闇の山の稜線によく似ていた。昼の光でもなく、夜の闇でもない、夕闇の中でしか見ることのできない輪郭というものがある。そうだ、僕は夢の中で、高く積まれた古タイヤの上で、見知らぬ女と抱き合いながら、更に夢を見ていたのだった。積まれた古タイヤの上で見知らぬ女と抱き合いながら、僕の心は全くの上の空だった。あの夢の中でいったい僕は何に夢中になっていたのだろう。

 明子が僕の狭い部屋に棲みつくようになったのは一年前の夏だった。夜の世界で働く女だったから、大抵は朝方に酔っ払って帰って来た。その部屋は古いアパートで、明子が帰って来る度にまるでドアを誰かが蹴り上げてでもいるような音がしたものだ。気性の激しい女で喧嘩ばかりしていた。ある朝、酔っ払って帰って来ると台所の流しに皿やグラスなどを延々と投げつけている日もあった。そうかと思うと、帰って来るなり僕に抱きついてきて、あたしの肖像画を描いてよう、と甘えた声でせがむ日もあった。明らかに頭のおかしい女だったが、なぜか追い出すことのできない不思議な魅力も備えていた。多分、その女の肖像画を描けた人間は幸せだったはずだ。そういう女だった。

 ガードレールにもたれて街を見るともなしに見ていると、突然、雨が降り始めた。その雨は次第に激しくなり、みるみるうちに目に見えるものを灰色に変えた。街路を行き交う人々は一様に折りたたみ傘を開き始め、街の風景は一変してしまった。多くの人たちが自分の足下を見つめながら通りを歩いていく。それはもうさっきまでのスローモーションではなかった。まるで古いフィルムでも観ているかのように足早に去っていく見知らぬ人の群れがそこにあった。歩道沿いに等間隔で植えられている街路樹が大粒の露を滴らせている。僕は傘を持っておらず、びしょ濡れのまま、その露を避けるように雨だけを身体に受けた。空を見上げると、雨粒が矢のように自分に降りかかってくるのがくっきりと見える。そのとき、ふっと、明子の肖像画を描いてあげたいと強く思った。もし今から明子がここに来たらすぐに部屋に連れ戻して肖像画を描いてあげようと。画材も一通り揃える必要があるだろう。僕は幸せな人間になれるだろうか。

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