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【ショート・ショート】カプチーノの苦味

 ビルの二階にあるカフェ店内の窓から見上げる灰色の空は、今にも雨が降り出しそうな予感を漂わせている。ランチタイムを外れているため、店内には私ひとりしかいない。アンティークな家具を出鱈目に並べながらも、不思議な統一感で優しい雰囲気を醸し出しているこのカフェ店内で、私はひとり窓際のソファに深々と沈み込み、カポーティの「無頭の鷹」を読みながらカプチーノを啜っている。時々、窓外に目をやり、まだ雨が降っていないことを確認する。そして、柔らかな白熱灯の下、小じんまりとした店内を見渡す。私から見て奥の壁際にはそれぞれ違ったアンティークショップから仕入れたらしい、不揃いなテーブルがふたつ並んでいる。その向こうの壁は白塗りで、所々ペンキが剥げているが、その粗雑さもどうやらこのカフェの雰囲気に一役買っているらしい。

 私は満足して左手に目を移す。そこはキッチンになっており、整然と吊るされたワイングラスの向こう、ガスコンロの手前に、まるで一昔前のパンク・ファッションのように髪を短く切り金色に染めた女の子がひとり、椅子に座っている。色白で目鼻立ちのくっきりした顔は私好みで、無表情な頬に若干塗りすぎではないかと思われるピンク色のチークは、もしかすると私の視線に照れているのかもしれない。なぜなら、その女の子は私に向かって手を振っているからだ。私は手を振りかえしたものかどうか迷う。しかし、手を振り返さずに、少しはにかんだ笑顔で視線を自分のテーブルの上に戻す。そのはにかんだ笑顔がなかなか真顔に戻らないため、私はカプチーノに手を伸ばして一口啜ってみたり、カポーティの短編集を両手に掴んでみたりする。それでも私のはにかんだ笑顔は真顔に戻らず、それをさっきの女の子に侮蔑とともに見られているのではと思い、そのはにかんだ笑顔のまま、もう一度女の子に視線を移す。女の子はさっきと同じ無表情なまま、私に手を振り続けている。

 結局、私は真顔に戻らないはにかんだ笑顔のまま、今度は窓の外に視線を移す。冬の冷気のためだろう、いつの間にか窓は曇っており、私は外を見るために人差し指で顔の大きさ分だけ露を落とす。そして、外を覗こうとしたときに、自分自身のはにかんだままの笑顔がガラスに映っていて私はギョッと仰け反る。その一連の動作と、私のはにかんだままの笑顔を、今度こそは侮蔑とともに見られているのではと思い、私は再びキッチンへ視線を向ける。女の子は表情ひとつ変えずに私に向かって手を振り続けている。私は徐々に哀しいような心持ちになってきて、いっこうに真顔に戻らないままのはにかんだ笑顔でもう一度窓に視線を移す。今度は私自身の顔を見ないようにして、先程露を落とした部分にはにかんだ笑顔のままの私の顔を近づける。

 さっきまで灰色だった雲は、その薄黒さを増しており、はっきりと目に見えるほどの雨粒が降り注いでいる。私ははにかんだ笑顔のまま、窓下に目をやり、その雨粒がアスファルトの路地を暗く染めるのをじっと見つめる。しばらくそうしているうちに、私ははっとあることに気づく。窓下の路地を行き交う女たちが、皆、傘を少し傾けて私に手を振っている。その女たちは、キッチンの女の子と同じように無表情に私を見上げている。路地の向こうから歩いて来るすべての女たちが、私の真下にやって来ると傘を少しだけ傾けて、はにかんだ笑顔の私に向かって手を振り通り過ぎて行く。私は次第に混乱してくる。はにかんだ笑顔のままカプチーノを急いで飲み干し、カポーティの短編集を持ってソファから立ち上がる。口の中をカプチーノの匂いが苦味を伴って広がっていく。そして、私は手を振り続けている女の子に向かって伝票を掲げてみせる。そうした後で、はっと気づいて窓側を向いたまま、ジーンズのポケットに手を突っ込んで何かを探しているふりをする。しかし、どうしてもはにかんだ笑顔は真顔に戻らない。私は意を決して、はにかんだ笑顔のまま、伝票を持って女の子の待つレジへ行く。女の子は手の動作こそ止めはしたものの、相変わらず無表情なままだ。私はそそくさとお釣りを受け取ると、女の子の表情も確認せずにドアを押して店を出る。ドアの外の踊り場へ出たとき、微かに女の子の声が「さよなら」と囁いたかに聞こえたが、私はその言葉を聞き逃している。

 階段を下りて、一階の入口に立ったとき、私は依然としてはにかんだ笑顔のままの自分を思い出す。顔の筋肉を思いっきり歪めてみるが、すぐに私の顔ははにかんだ笑顔に戻ってしまう。外では冬の冷気を含んだ雨粒が降り注いでいるが、私は傘を持ち合わせていない。私はふいに「無頭の鷹」のある場面を思い出す。ヴィンセントが鋏で絵を切り刻む場面を。そして、私ははにかんだ笑顔のまま、颯爽と路地に飛び出す。女たちが総勢で私に向かって手を振る中、私は「デストロネッリさんに殺される!デストロネッリさんに殺される!」と大声で叫び始める。すると、手を振っていた女たちは、皆、その動作を止めてぱっとした笑顔で一斉に路地を歩き始める。なかにはスキップしている女もいる。私はそれを見届けると、冬の冷気に滴る涙をしきりに拭いながら、全速力で路地を走り抜ける。もちろん、はにかんだ笑顔のままで。

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