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【ショート・ショート】色彩のない世界で

 私は透明になったような心地で、古ぼけた飲食店の白いテラスにひとり座っている。通りを行き交う雑多な人たちを眺めながら、遠くまで来たのだな、とひとり言をいう。青い道路標識の漢字表記や人々の話し声から、おそらく、ここは私の故郷ではないのだろう。実際、私の目の前にはスープのない担々麺が置かれており、そんな料理にはこれまでお目にかかったこともない。私は注文した覚えのないその料理を少しだけ啜ってみる。麺の上に挽肉が乗せられており、底に溜まっている辛味のある調味料がどうやら口腔内に刺激を与えるようだ。私は故郷で食べた担々麺を懐かしむように、しばしの間、咀嚼し続ける。香辛料の刺激が遠ざかってしまうと、私はゆっくりと顔を上げる。そして、色彩の消えた風景をひととおり眺めると、向かいに座っている男をしげしげと見つめる。

 煙草でもねだりに来たのだろうと思っていたその浮浪者風の男は、驚きの表情を顔一面に浮かべて、私と担々麺を交互に見比べている。まるで、上等な手品に騙されたかのように。私は微笑みながら、食べますか、と担々麺を差し出してみる。男はそれを見ると、椅子からひっくり返ってしまう。男は慌てて立ち上がると、通りを行き交う人々に、大声で何事かを叫び始める。すると、十数人の老若男女がぞろぞろとテラスを囲むように、私に近づいてくる。そして、彼らは、私と担々麺を交互に指差しながら、ひそひそと何かを話し合っている。私はまるでミッキーマウスにでもなったような気分で彼らの様子を眺めている。やがて、飲食店の給仕だろうか、年増の女がやって来て、私の目前にある担々麺を片付けてしまう。女は私の存在はおろか、テラスを囲んでいる人々にも全く興味を示さずに、そそくさと奥へ入って行く。

 いつの間にか色彩の消えた街並みを、私は市場へ向かって街路を歩いて行く。歩みを進めるごとに、他人とすれ違うが、彼らはいっこうに私を見ない。一度なんて、通行人に向かって酷く顔を歪ませてすらみる。もちろん、彼はそれを無視して歩き去って行く。私はなんだか嬉しくなってきて、空でも飛んでいるような浮遊感に心から満足する。そうするうちに、やがて、私は異臭が漂う市場へ辿り着く。しかし、混雑が激しく、その異臭がどこから漂ってくるのか分からない。街商人たちは様々な野菜を並べていたり、元々はどういう動物だったのか分からない肉を所せましと吊るしている。ひととおり市場を歩いていると、ひときわ混雑している雑踏に出会す。どうやら、そこからさっき嗅いだ異臭が漂っているようだ。私は雑踏を掻き分けてそこを覗いてみる。女たちが五、六人、テーブルの上で何かを食べている。近づくにつれ、それが担々麺であることが分かる。そして、私はあることに気づく。色彩の消えた風景の中で、テーブルの中の一人の女にだけ色が付いている。私がその女に近づいていくと、女はにやにやした顔で後ろを指差す。その方向を見ると、皮を剥がれた小さな動物の死骸が積み重ねられている。もちろん、色彩はない。しかし、私はそれが猫であることに気づく。すぐ傍で、これから茹でられるのを待っている子猫が鳴いているからだ。私は咄嗟にその子猫を抱きかかえる。すると、さっき色彩のあった女から、次第に色が消えていく。私は吐き気を催しながらその場を立ち去る。

 もちろん、子猫を抱いている私を通行人たちは奇異な目で見ながら通り過ぎて行く。しかし、私はミッキーマウスであり、子猫を救ったヒーローにでもなった気分である。若干の窮屈さを感じながらも、私は子猫を撫でながら、街路を先へ先へと進んで行く。当然、この街がどういう形をしているのかを私は知らない。それでも、街には行き止まりがあるものだ、と私は思う。適当に街路を左右に曲がっていると、公園のような場所が眼前に広がる。私は子猫を抱いたまま、公園内に入っていき、花壇のようなレンガ造りの塀に腰かける。その公園はさほど広くはなく、見渡す限りひと気はない。私は奇妙な静けさに心が落ち着いてくる。ひとしきり子猫を撫でた後で、迷った末に、私は子猫を公園内に放ってやる。子猫はしばらくの間、私の方を不安げに見ていたが、やがて、自分の状況を把握したらしく、振り向きもせずに去っていく。おそらく、この公園の奇妙な静けさに一役買っているのは、私が座っている花壇に所狭しと植えられている木芙蓉のせいだろう。私は振り向いて花壇をひとしきり眺めてみる。公園内に入ったときには色彩のなかった花壇に、一輪の木芙蓉にだけ鮮やかなピンク色が付いている。私はそのピンク色の木芙蓉をもぎ取る。その花からは、これまでに嗅いだことのない香りが漂う。そして、その香りは、なぜか私をよりいっそう孤独感で満たす。私はピンク色の木芙蓉を瞼に翳してみる。私にとって、唯一の色彩であるピンク色が、まるで太陽のように私を照らす。ふと、「シンドラーのリスト」という映画を思い出す。確か、少女の靴にだけ赤い色が付いていたはず。あれはどういう意味だっただろう。私は色彩のない世界で、色彩の遠い故郷を想う。私は色彩のない世界のために、あるいは、遠い色彩の故郷のために、哀れみの涙を流す。瞼に翳した木芙蓉の花から、鮮やかなピンク色が消えてしまわないうちに。

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