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【ショート・ショート】孤独な宇宙遊泳

ショート・ショート

 新幹線が広島駅に到着する直前、私は異変に気づき、読んでいたN・コールダーの『アインシュタインの宇宙』を閉じる。私は東京行き上りの指定席、四号車の窓際に座り、車両の前方から中程までが順々に宙に浮かんでいくのを見ている。宙に浮いた車両は右側にくねり始め、まるで天に昇る龍でも見ているようだ。あるいは、それは「銀河鉄道999」の一コマのようでもある。いずれにせよ、私の座っている車両がそのうち宙に浮いていくのは確実に思われる。私は窓越しに前方車両の空中ショーを眺めながら、隣席でキャップを被っている女の子と一緒に行儀よく順番を待っている。不思議なことに車内アナウンスは一切聞こえない。しかし、周りの乗客たちはさも当然であるかのようにシートベルトを着用し始める。私は新幹線にシートベルトがあったことを少々訝しがるが、それでも、他人たちに倣い、備え付けのシートベルトをしっかりとしめる。車両が浮くときに、飛行機程度のGがかかったが、気づくと、私はもう広島の街を鳥瞰している。

 窓の下を覗きこむと、原爆ドーム太田川相生橋などが、ミニチュア模型のように私の目に飛び込んでくる。その付近以外は至って普通の大都市で、特に見栄えのしないビルが狭い範囲にひしめき合っている。私はもう一度、原爆ドーム付近に焦点を合わせ、その上空からリトルボーイが落ちていく様を想像してみる。エノラ・ゲイから投下されたそれは、高度六百メートル付近で核分裂を起こし、宇宙エネルギーの力によって一瞬で広島の街を消滅させたはずだ。私は地上にいて、真っ青な空、それ自体が我々の視覚的な恩恵のもとである太陽よりも眩しい閃光を、全身に浴びる。一瞬にして私の身体は溶けてしまう。意識が遠のいていき、溶けた身体を地上に置き忘れたまま、私はぶるぶる震えて隣席の女の子の手を握りしめる。女の子は平然とした声で、分かるわ、と私にいう。同じことを想像していたの。横を向くと、女の子の身体は原型をとどめておらず、ほぼ全身が溶けて骸骨と化している。それを見た途端、私は身体が前のめりになり、呆気なく気絶してしまう。

 意識が戻ると、新幹線は高度を上げており、私は自分が何処を飛んでいるのか分からない。おそらくは、四十五度くらいの角度で新幹線は上昇を続けている。突然、まもなく大気圏に突入致します、というアナウンスが車両に響き渡る。他の乗客たちが平然とした顔でシートベルトをしめ始めるのを見て、私も再度シートベルトを両手に探す。しかし、先程のシートベルトはいつの間にか無くなっている。私は泣き出しそうなのか、怒りたいのか分からない心持ちで、大声で笑い出す。ひとしきり笑い終えると、目の両端から涙が少しだけ滴っており、私はそれをハンカチで拭う。そうするうちに、新幹線は大気圏に突入したらしく、私の身体はまるでピンポン球のように車両内をあちこち飛び跳ねる。私は全身を壁に打ち付けるが、大気圏を脱出した後には、特に痛みもなく、車両内を自由自在に浮遊している。他の乗客たちもシートベルトを外して、宇宙遊泳を楽しんでいるかのようだ。笑顔で宙を泳いでいる人もいれば、まるで走るような身振りをしている人もいる。私は適当な窓を探して、そこに顔を近づける。真っ暗な闇の中に、私の地球、私たちの地球が青々と輝いているのが見える。私は恍惚としながらも、やはり、泣きたいのか怒りたいのか分からないまま、大声で笑い出し始める。そして、涙をハンカチで拭う。

 ほどなくして、再度アナウンスが車両内に響き渡る。五分後にこの新幹線は光速度に達し、もうひとつの宇宙へ到達する予定です、どうぞ宇宙の絶景をお楽しみください。それを聞いた私はほとんど感情を失い始め、笑いも涙も出なくなっている。私は身体を水平にして宙に浮いたまま、もう一度、私の地球、私たちの地球を窓越しに眺める。緑色や茶色の大陸、青い海、その上空にかかる白い雲、そして所々で散発的に起こる稲光たち。それらを眺めながら、地球に残してきた者たちを想う。しかし、私の胸にはもう何の感情も湧いてこない。窓には四十歳の無表情な私の顔が映っている。おそらく、五分が経過したのだろう、窓の外が目まぐるしく明滅し始め、様々な色彩が窓外を過ぎ去っていく。同時に、私はこれまでに感じたことのない安らぎに包まれる。目を閉じると、仄白い光が私を迎えるようだ。私はその光に向かって懸命に手を伸ばすが、いつまで経っても手は届かない。ふと気づくと、スペース・ワープは終わったのだろうか、窓外には先程と同じく、青い地球が浮かんでいる。そして、まもなく大気圏へ再突入致します、というアナウンスが車両内に響く。私は適当な座席を見つけ、シートベルトをしめる。

 大気圏再突入を終えると、新幹線はゆっくりと下降し始める。私はある建物を探すため、必死に窓下に目を向ける。その建物は、私が宇宙へ旅立つ前と同様の姿で存在している。私はなんだか全身から力が抜けていき、がっかりしてしまう。そして、可能世界、もうひとつの宇宙について想いを巡らせる。そうした後で、いつの間にか、新幹線が線路に着地する衝撃を身体に感じる。ヒロシマヒロシマに到着でございます、というアナウンスを聞いて、私は隣席の女の子を確認する。私はその姿を見て仰天する。隣席の女の子はキャップを被った老婆にすっかり変貌している。多分、宇宙遊泳をした後に適当な座席を選んだからだと、私は自身を納得させる。しかし、周囲を見回すと、ほとんどの人たちが老いており、骸骨やミイラになっている人も散見される。私は窓に映る自分の顔を見る。そこには、やや疲れ果てた私の顔、四十歳のままの私の顔が映っている。

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