【映画】カニバル、ISIS処刑動画について

はじめに

 映画「カニバル」はマヌエル・マルティン・クエンカ監督によって製作され、 2014年5月に日本で公開された。カニバリズム映画といえば、サイコパスによる猟奇的でグロテスクな映像、例えば、人肉を切り刻む、人体の内蔵の露出、多量の流血、等々を想起するのが普通だ。もちろん、この映画にも殺害シーンはあるし、主人公は人肉を食す。しかし、先述したようなグロテスクなシーンを観せられることは一切なく、むしろ、観客はスクリーンに映し出される美しく、静かで、やや退屈なシーンの連続を観せられることになる。そういう意味では、一般的なカニバリズム映画を期待していた観客にとっては少々がっかりする作りになっている。しかし、スペインのグラナダを舞台に、静寂な映像美を讃えたこの不思議なカニバリズム映画は、ある思考のヒントを所々で与えてくれる。ここでは、この映画のあらすじと私の雑感をざっと書いた後で、私たち観客の立場と、それぞれの役を演ずる俳優たち自身の立場を交えながら、少々愚考してみたいと思う。その後で、 ISISの処刑動画について私なりに愚考してみたい。

映画「カニバル」のあらすじと雑感

 アントニオ・デ・ラ・トーレ演じる主人公カルロスは、自宅アパートにほど近い場所で仕立屋を営みながら日々の生計を立てている。一日の仕事が終わると、アパートに帰り、冷蔵庫にたっぷりと保存してある、過去に殺害し解体した美しい女性たちの人肉片をフライパンで焼く。その人肉ステーキを白い皿にぽつんと乗せ、テーブルに赤ワインと一緒に並べて、黙々と晩餐を嗜む。そして、眠くなると全裸になってベッドに潜り込んで眠る。そんな風に、孤独で寡黙な中年男のひっそりとした暮らし、それでも少しだけ何かがおかしい暮らしを日々過ごしている。

 その静かな生活が、ある日、アパートの上階に住むルーマニア人女性、オリンピア・メリンテ演じるアレクサンドラの出現によってかき乱される。カルロスの部屋の窓から上階を見上げると、アレクサンドラの部屋が見え、ある夜、そこに立つアレクサンドラとカルロスは目が合う。その後にアレクサンドラが言った、「あなた、わたしを見ていたわね」という含み笑いが印象的だ。ありふれたラブ・ストーリーであれば、ここから二人の恋愛、情事が始まってもおかしくはない。しかし、ある日、アレクサンドラは冷蔵庫の中の人肉片を目撃してしまう。その後、カルロスはあっさりとアレクサンドラを殺害する。

 これらの殺害や人肉食の合間に、度々、聖体祭のシーンが挿入されている。映画では描かれていないが、おそらく、カルロスは美しい女性を殺めて食すことで、性欲を昇華、解消させているはずだ。これは私の邪推だが、カルロスの人肉食にはキリストとの同一化という側面もあるのではないだろうか。

 アレクサンドラの殺害から数日後、今度はアレクサンドラの行方を探しているという双子の姉ニーナが現れる。この双子の姉ニーナを演じているのもオリンピア・メリンテである。謂わば、ニーナはアレクサンドラの化身のようなものだ。ニーナと親しくなるにつれて、カルロスの心は揺れ動く。ニーナは親切で寡黙な男、カルロスに心惹かれている。しかし、当然ながら、カルロスはニーナを殺害し、食したいのだ。葛藤の末、カルロスはニーナを山小屋へ連れていく決意を固める。

 このカルロスの葛藤を彷彿とさせるようなシーンが合間に挟まれている。陽が沈んでいく海岸で若い男女の恋人が戯れているシーン。それを車中から見ていたカルロスは、意を決したようにフロントライトを灯し、一気に車を加速させ、男性をはねる。そして、暗い海の中で溺れ死んでいく女性を見捨てて去っていく。場当たり的なこの殺害で、カルロスはなぜこの女性を食さなかったのだろう。私の考えでは、おそらく、この殺害には本当に何も意味はない。要するに、ニーナとの間で生じた葛藤のストレスを発散するためだけの本当に場当たり的な殺害だったのだと思う。意味があるとすればそれだ。

 山小屋にニーナを連れ込んだカルロスは、ニーナに睡眠薬を飲ませ、裸にして台の上に仰向けに寝かせる。ニーナの殺害、解体を始めようとするが、カルロスはそこで手を置く。次の朝、ニーナは目覚めると裸でベッドにいる自分に気づく。しかし、そこでカルロスとの性交があったのかどうかは私たち観客には分からない。カルロスはニーナに向かって妹アレクサンドラを自分が殺めて食したことを告白する。はじめはそれを信じないニーナだったが、やがてそれを受け入れる。そして、カルロスと二人で走行中の車中、ふいにニーナはカルロスの握るハンドルをきる。カルロスは助かるが、ニーナはそこで命絶えてしまう。ラストシーンで、カルロスは聖体祭の様子を窓から眺めている。そこで、この映画は終わる。

 ニーナに向けて「私は誰も愛さない」と語ったカルロスは、おそらく、本当に誰も愛さなかったのだと私は思う。カルロスが美しい女性を殺害、解体して食す行為、つまり、そのカニバリズムがキリストとの同一化を示す行為だとすれば、カルロスは自分自身を食していることになる。つまり、この映画は徹底してカルロスの独我論的な映画なのだ。ニーナはアレクサンドラの双子の姉であり、また、この二人をオリンピア・メリンテが同時に演じてもいる。すなわち、アレクサンドラを殺めたカルロスは、ニーナを殺めて食すことができない。自分自身を二度食すことなどできないからだ。また、この映画の副題に「 A Love Story」とあるが、この映画がラブ・ストーリーだとすれば、それはカルロス側からの視点ではなく、ニーナ側の視点からのそれであるはずだ。ニーナにとってカルロスは他者だが、カルロスにとってニーナは食す対象であり、自分自身でもある。すべてはカルロスの独我論的世界なのだから。

観客の裏切り、フィクションの崩壊、自由の限界

 映画的な映画というのは、いうまでもなく、製作者と観客の間に結ばれた「これはフィクションである=虚構である」という密約を前提とした共犯的な虚構装置だ。そして、その密約、共犯は製作者側から一方的に強制され、観客は自ずから進んでそれを受け入れて映画を楽しむ。また、映画を主体的に観賞するという行為は、観念的、身体的、そして、時間的な、拘束を受け入れるということでもある。もちろん、観客にも自由はある。単に映画を観に行かなければいいだけだ。しかしながら、拘束性を受け入れた観客が、その一方的で強制的な密約、共犯を、映画を観賞しながら主体的に裏切る方法がある。それは、まさに映像そのものを観てしまうという行為によっていとも簡単に遂行される。それはどういうことか。視点を変えて、役を演ずる俳優の立場になって考えてみよう。

 例えば、この映画「カニバル」では、アントニオ・デ・ラ・トーレ演じる主人公カルロスが、ひとり黙々と人肉を食すシーンがある。ここで、アントニオ・デ・ラ・トーレからカルロスという役柄に付随するシニフィエを剥ぎ取ってみる。すると、私たちはアントニオ・デ・ラ・トーレという俳優が、白いクロスのテーブルに赤ワインと皿を置き、フォークとナイフを巧みに使ってステーキ肉を切り刻み、黙々とその肉片を口に運んで咀嚼するという身も蓋もない映像を観ることとなる。もちろん、この映像は純粋な外示ではありえず、共示的なシニフィエを含む。一例としては、アントニオ・デ・ラ・トーレという俳優の食事風景、美味しそうなディナー、というシニフィエと共示である。しかし、私たちはこの映画からカニバリズムというシニフィエを排した。それだけで、私たち観客の目論見は成功したと考えてよい。

 もうひとつ例を挙げてみると、冒頭で、カルロスが自分の運転する自動車を前方の自動車に追突させて、女性を殺害するシーンがある。カルロスはその死んだ女性の遺体を山小屋に運び込み、女性の遺体を裸にして台に仰向けに寝かせる。もちろん、カルロスはカニバリストであるから、女性の遺体を鋭利な刃物で解体し始める(この映画ではグロテスクなシーンはない)。このとき、遺体となって台の上に裸で横たわる女性から、その役柄に付随するシニフィエを排してみる。私たちは、死んで裸の遺体となったふりをしている生身の女性を目撃することになる。

 ふたつの例を挙げたが、このように、映画において俳優から役柄に付随するシニフィエを剥ぎ取り、俳優その人を観てしまうこと、言い換えれば、映像そのものを観てしまったとき、とある意味は消失し、私たち観客は映画から逸脱していく。私たち観客は製作者との約束事、一方的で強制的な密約、共犯を、主体的に裏切ることに成功することとなる。もっといえば、そこでフィクションは瓦解する。映画観賞という行為が前提的にはらむ観念的な拘束性、それを、映画を観ながら観客が主体的にすり抜ける裏切り行為、そこではじめて観客は、製作者との非対称的な力関係を覆し、主体的に観念的な自由を獲得する。しかしそれでも、観客は映画観賞に伴う身体的、時間的な拘束からは自由になれない。結局のところ、映画的な映画を観るという行為はそういうことなのだろう。

 同時に、観客による裏切り行為は、スクリーンの舞台裏をピーピングするというスリリングな行為でもあり、それを密かに知っている人間がひとり存在する。映画撮影のカメラマンである。ロラン・バルトは『明るい部屋』という写真論で、撮影者の本質を「不意にとらえること」だと書いている。

…私が想像するには(私は写真家ではないから、私にできるのは想像してみることだけである)、「撮影者」の本質的な行為は、ある事物または人間を(部屋の小さな鍵穴から)不意にとらえることにあり、したがってその行為は、被写体が知らぬまにおこなわれるとき、はじめて完璧なものとなる。

 ロラン・バルトが述べているのは写真の撮影者についてであるから、映画撮影のカメラマンに当て嵌めるのはやや的外れであるかもしれない。しかし、上記引用の箇所はピーピングのスリルについて書かれている。当然だが、映画撮影のカメラマンと映画監督、俳優陣との間には映画製作という共同的な約束事があり、カメラマンはそれを裏切ることができない。そして、公には映画撮影のカメラマンは俳優たちを「不意にとらえること」もできない。よって、映画撮影のカメラマンによるピーピングの完全犯罪は未遂に終わるだろう。それでも、レンズの小さな穴からじっと俳優たちを覗き込むカメラマンは、私たち観客の裏切り行為を密かに知っているに違いない。まるで、探偵小説家たちのように。

 おそらく、カニバリズム映画は、これまでに述べてきた事柄を考察する上で、分かりやすい映画ジャンルだろう。映画「カニバル」では、それぞれの役柄に付随するシニフィエを排除し、演じる俳優たち自身を観てしまうことによって、フィクションは崩れていく。そして、映画は滑稽さをも含んだものとなっていく。殊に、俳優たちの視点に立つと、「死」を演じる滑稽さ、難しさは尚更のことだと思われる。それは、かつて誰も死んでみたことがないからである。

…演劇と「死者信仰」との原初的なつながりはよく知られている。最初の演技者たちは、「死者」の役割を演ずるにあたって、身を共同体から切り離した。顔に化粧をほどこすのは、身を生きながら死んだ肉体として示すためであった。たとえば、トーテムの芝居の白く塗った上半身、中国の演劇の顔を隈どった男、インドの古典舞踊劇カタカリの練り白粉を基調にしたメーキャップ、日本の能面はそうである。――ロラン・バルト『明るい部屋』より

ISISの処刑動画についての愚考

 今日、連日のように報道される ISISの蛮行と犯行声明文、そして、処刑動画は、もはや私たちの日常になっている。私自身は、その処刑動画を一度も観たことがないから、ここでは具体性に欠ける書き方しかできない。そして、私自身の ISISに対する倫理的、政治的、イデオロギー的な見解はここでは省略し、その動画のみに焦点を当てて愚考してみたい。

  ISISが配信する処刑動画に関する様々な報道を見聞していると、どうやら、その動画の作りは、まるで映画のようであるらしい。単純に、処刑現場を長回しで撮影するのではなく、音楽、ナレーション、処刑される人間の台詞と処刑する人間の台詞、カット割り、それらが精巧に加工されて、それぞれの処刑動画としてパッケージされているようだ。それを、ハリウッド映画のような手法であると論じた識者もいる。

 これは、ある意味、戦争フィルムのアナロジーである。私たちは凄惨な戦争フィルムを観るとき、すなわち、過去に生きていた人間が死んでいく映像を観るとき、それが過去のいつかに現実に起こった出来事であることを知りつつ、精緻に編集された映像としてそれを観る。例えば、NHKが製作した「映像の世紀」という有名なドキュメンタリーがある。その映像では過去に起きた戦争という悲劇的な出来事を、巧妙なカット割、抑制の効いたナレーション、加古隆作曲の美しい旋律、といった効果的な編集、構成によって、まるで情緒的な美しさへと観る者を導く。それは、映画的ですらある。しかし、戦争フィルムの問題は、それが戦争という国家間による合法的な殺人という点にある(ここでは倫理的観点は省略する)。場合によれば、それらの映像は歴史を学ぶための教材にもなりうる。では、ISISの処刑動画はどうだろう。

 ISISの処刑動画は戦争フィルムといえるだろうか。もちろん、それを戦争フィルムとして観ることを余儀なくされる人たちも一定数は存在する。実際、アメリカをはじめとする有志連合国家ISISと戦争をしているし、当然ながら、それらの政府関係者たちは、自国の人質が殺害された映像を、戦争フィルムを検証するように観る他ない。それは、検察官による検視に似ている。では、自身の政治的な利害に無関係な、専ら好奇心によってのみISISの処刑動画を観る多くのネットユーザーたちの観方はどうなのだろう。

 例えば、オレンジ色の囚人服を着せられたとある人質が、黒い被り物で目以外を覆ったISIS兵士に斬首される映像を観ているとする。おそらく、人質は両手両足を縛られた状態で地面に跪き、なんらかの台詞を強要され、それを発信する。処刑人もまた、なんらかの台詞を発信するだろう。その映像にはプロパガンダとして字幕が表示され、背景では音楽が鳴り響いているのかもしれない。やがて、処刑が始まり、人質の頭部は地面に押し付けられる。処刑人の鋭利な刃物が人質の頸動脈に突き刺さった瞬間、人質は呻き声を上げ、首からは大量の血液が噴き出す。処刑人の鋭利な刃物が、瀕死の人質の首にさらに深く食い込み、やがて、人質の頭部は完全に切断される。処刑人は人質の頭部を掴み、高々と掲げて、最後にもう一度なんらかの台詞を発信するのかもしれない。背後には、ISISの象徴である黒い旗が風に揺れているだろう。そこで、映像は終わる。

 この映画的な志向を含みながらも、最も映画的ではない残虐な映像は、多くのシニフィエを提示してはいるものの、映像どおりの映像、つまり、外示的な映像として観ることができる(共示的に観てしまうと必然的に政治的な事柄を語らざるをえないだろう)。むしろ、様々なシニフィエを排除するまでもなく、ネットユーザーたちは外示的な映像として、この処刑動画を観ざるをえない。仮に、この映像に映る二人の人物に役柄があるとしてみよう。もちろん、処刑人には処刑人としての役柄があり、処刑される人質には斬首され殺害されるという役柄がある。しかし、両者の役柄に付随するシニフィエを排除しても仕方がない。なぜなら、どのみち一方の男は、もう一方の男を斬首し、現実に殺害するからだ。要するに、多くのネットユーザーたちにとって、ISISの処刑動画は、残虐的なスナッフフィルム(そんなものが存在するのかは知らないが)と変わりがない。

 そして、これらISISの処刑動画はネットユーザーたちにコピーされ、動画編集ソフトで遊戯的に再加工されて、無秩序にネット上に氾濫することになる。民俗学が成立するためには、その研究対象は死ななければならない、とボードリヤールはいった。今後、ISISの処刑動画とそれに伴う贋作がネット上で増殖するにつれて、オリジナルと贋作の区別が曖昧な、すなわち、シミュラークルの跋扈とでもいった様相を呈してくるのではないだろうか。そのとき、フィクション=虚構としての残虐性を帯びたモキュメンタリー映画(「ありふれた事件」や「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」などが有名だろうか)と、現実を撮影した残虐的な映像との差異は限りなく縮小していく。私たちは何が映画的な映画なのか、つまり、これまでの映画において、製作者と観客が予め前提としてきた約束事、「これはフィクションである=虚構である」という密約、共犯を、しだいに喪失していくのかもしれない。それは、果たして映画の終わりなのだろうか。

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