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【エッセー】昭和の終焉までに

エッセイ

 母方の祖母が他界したのは、確か、五年前だったと思う。亡くなるまでの入院期間が長すぎたため、その死はどこかあっけなく感じられた。実際、祖母の死に目に立ち会えたのは、親族のうち、ニ、三人だった。あの日のことを少しばかり思い出すと、私はちょうど故郷の山口県周南市に帰っており(私の三十代はそのほとんどが引越しの連続だった)、出先で祖母の危篤を知り、用事が済むと、祖母が入院している病院へ直行した。病室へ入ってみると、親族が誰一人いない。祖母が危篤だというのに、親族が誰一人いないことを私は訝しみ、実家に電話してみると、家族で夕食中だという。私は呆気にとられたと同時に、電話口の母に怒鳴りつけた記憶がある。自分の母が危篤なのに、何をしているのかと。その後、私はもう一度病室へ戻り、危篤状態の祖母に何かを語りかけた。そのとき、祖母の目が開いたのか、あるいは、祖母が微かな声で言葉を発したのか、どちらだったか忘れてしまったが、祖母が何らかの反応を示したことは、はっきりと覚えている。その夜、大正七年生まれの祖母は九十歳で息を引き取った。

 祖母の生前、長い入院生活中に、私たち親族は度々見舞いに行った。最も祖母を慕っていた姉は、ほぼ毎日のように見舞っていたのではないだろうか。ある日、私がふらっと見舞いに行くと、やはりそこには姉が居り、私たち姉弟は祖母を車椅子に乗せて、小川の見える屋外で、小一時間、雑談をした。どういう話の流れだったのか忘れてしまったが、私は祖母に何気なくこう訊ねた。「天皇陛下は、昔、神様だったんだよね?」と。そのとき、予想外に姉がぎょっとしたような目で私を見たものだから、私はそれ以上その話はしなかった。今振り返ると、その頃、まるでいかさまのような占星術風水神秘主義的なものがテレビで流行っていたらしい。姉もまたその被害者だったようだ。そして、祖母の返事も曖昧で、私の言葉はあまり届いていないようだった。確か、そのとき、祖母は「お祖父ちゃんに会おうおもうて、横浜の大仏様のところへよう行ったもんじゃ」というようなことを話していた。私はちょうど横浜から故郷へ帰った頃だったから、そのとき、すぐに大船観音寺を思い浮かべた。

 大正二年生まれの母方の祖父は、おそらく、昭和天皇玉音放送を旧徳山市(現周南市)の沖合いにある、馬島(大津島)で聞いたのだろうと思う。私が三歳の頃に、六十四歳で亡くなった祖父は、先の戦争中、旧海軍に所属していて、敗戦の間際には特攻兵器である人間魚雷回天の搭乗員に志願していた。馬島(大津島)には今も回天基地跡が残っているが、聞き伝えによると、祖父は出撃直前に敗戦を迎えたらしい。私はその逸話を聞いて以来、もし、祖父が出撃後に敗戦の日を迎えていたら、と度々夢想したものだ。私がいなかった可能性のある現実は、それを世界、または現実と呼べるのだろうかと。

 敗戦後に「人間宣言」をした昭和天皇が、メディアを通じて初めて日本国民の前にその実在を知らしめたのは、敗戦の玉音放送によるその声だ。その後、先の戦争における旧軍司令部の実質的な最高司令官だった昭和天皇戦勝国による軍事裁判、いわゆる、東京裁判で裁かれることもなく、昭和は六十四年も続いた後、昭和天皇崩御でその幕を閉じた。

 先の戦争前、旧大日本帝国黄色人種の国としては唯一、西洋的な近代化に、括弧付きで成功しており、明治時代に勃発した日清、日露戦争に勝利したことから、世界的には既に一等国として扱われていた。括弧付きとしたのは、言語も文化も異なる西洋の諸近代国家と全く同様な近代国家だったのかは少し怪しいからだ。そして、後発近代国家、または、後発資本主義国家であるが故の問題も抱えていた。ある見方によっては、旧大日本帝国大東亜共栄圏構想とそれに伴う帝国主義的な侵略は、後発資本主義国家としての旧大日本帝国による既得権益的な世界秩序への挑戦だったともいえる。しかし、旧大日本帝国は対中国を主とするアジア侵略と、対アメリカ、イギリス等の連合国との両面戦争で完膚なきまでに敗北し、国土の大部分は焦土と化した。

 昭和天皇は、いささか、長く生きすぎたのかもしれない。先の戦前には一等国としての旧大日本帝国天皇として君臨し、敗戦後に焦土と化しアメリカに占領された日本を「象徴天皇」として見つめ、復興から高度経済成長を経てふたたび世界第二位の経済大国として世界に踊り出た日本をも経験している。昭和十六年の真珠湾攻撃から考えたとしても、たった四十八年の間に、これほどまでの変化を実質的な国家元首として経験した人物は他に例を見ないのではないだろうか。昭和天皇の八十七年の人生を考えるとき、それを生身の人間として想像すると、私は思わず卒倒しそうになる。

 昭和五十年に私が生まれたとき、既に、昭和天皇は「国民の象徴」としてテレビに映っていた。日本は復興をほぼ終え、経済大国の道を歩んでいた。幼少時には、山口県のさほど大きくない都市でも、多数の浮浪者や野良犬等を道端で見かけたものだが、私自身の成長と日本という国家がソフィスティケートされていく過程がまるで比例するように、野良的なものは地方の小都市から消えていった。山陽新幹線が開通したのは、私が生まれた昭和五十年である。このように、交通インフラもまた整備、洗練されていく過程とともに、私は成長したのだ。

 昭和六十年の夏、私は十歳になっており、家族とともに父の実家がある島根県の農村に赴いていた。父方の祖父と祖母、そして、私たち家族で夕飯を食べているときに、テレビにニュース速報のテロップが流れた。それは、日航機墜落事故だった。私はそのときの光景、夕食時に皆が固唾を呑んでテレビに釘付けになっている光景を鮮明に記憶しているが、どうやら、一番興奮していた父はおろか、家族の誰もそれを覚えていないらしい。その墜落した日航123便はアメリカのボーイング社製のジャンボ機だった。十歳の私はそのときの光景の鮮明さほどには、その意味をよく理解していなかった。ニュースを眺めていると、横田基地の米軍がどうのこうのとアナウンサーが喋っている。私は戦争でも起きたのだろうかと、よく分からないまま、ニュースとその後のワイドショーを連日眺め続けた。

 ところで、父方の祖父について少し触れておきたい。七年前に他界したその祖父は、私と血縁関係にない。つまり、父の血縁的な父親ではない。父の血縁的な父親は、結核を患ったことで戦争に行けないことを苦に自殺したと聞いている。父方の家系は、しっかりとした家系図でも書かなければ把握できないくらいややこしく、実際、今現在でも私はそれを完全には把握していないが、私の記憶の中の祖父は、婿養子として父の実家にやってきたらしい。先の戦争中は陸軍の兵隊として徴兵され、中国本土や満州に赴任したが、戦後に侵入してきたソ連兵に捕まって、シベリアで数年間強制労働させられ、そこから東南アジアへ渡ってマラリアに罹り、それを克服して命からがら島根県の農村に帰還したと聞いている。私にとっては夏の蝉採りや川釣り等、懐かしく、優しい祖父だったが、父は怖い人だったと今でもよく口にする。

 七年前にその祖父が危篤に陥ったとき、私は神奈川県川崎市に住んでいて、祖父のもとに駆けつけるかどうか悩んだ。その頃には、もう十数年会っていなかったし、いくら祖父といえども、考え方を変えると、血縁関係にない他人である。しかしながら、私は少し大きな旅行用のバッグに荷物を詰めて、島根県の農村にある父の実家から車で二十分くらいのところにある病院へ駆けつけた。父方の祖父の死に目には、親族のほとんどが立ち会えた。印象的だったのは、祖父が危篤の間、父は一睡もせずに一人でずっと祖父の傍に居続けていたことだ。父は祖父と血縁関係にないことを、ものごころついた頃に、祖母からではなく、近所のおばさんから聞いたそうだ。おそらく、それは想像を絶するほどにショックだっただろうと思う。それでも、父は危篤の祖父の傍らに座り続け、葬式の際には気丈に喪主としての責任をまっとうした。一度、父に本当の父親の写真を見てみたくないかと訊ねたことがある。「わしは特に興味ない」と父は即答した。私はあまり腑に落ちなかったが、血縁関係になくとも、自分が育ててもらった父親というのは、記憶の父親として心のどこかに存在するのかもしれない。しかしながら、私は、父が失った本物の父性、生まれながらに不在であったもう一人の祖父の写真を見てみたくはある。

 昭和六十四年の一月、昭和天皇崩御の際、私は十三歳で、確か、机に向かって学校の宿題をしながら、延々とザ・ブルーハーツを聴いていた。元号が平成に変わったことで、何かが終ったことは把握できたが、テレビに延々と流される昭和天皇の葬儀を観るよりは、ザ・ブルーハーツを聴いている方が楽しかったのだ。確か、学校も休みで、後から聞いた話によると、レンタルビデオ店はやたら繁盛したらしい。私は当時流行っていたザ・ブルーハーツのTRAIN-TRAINを本当に一日中何度も繰り返し聴いていた。そのアルバムで一番好きだったのは「青空」という曲で、今でもその曲はよく口ずさむ

 今、こうして文章を書きながら、四十歳の私として昭和天皇崩御を振り返ってみると、困難で波乱に満ちた一人の男性の死を感慨深く思うと同時に、天皇として昭和天皇が体験したと思われる数奇な運命とでも呼べるような、天皇としての人生に圧倒されてしまう。激動の時代、昭和は平成へと変わり、平成も既に二十七年が過ぎた。平成二十三年三月十一日に起こった東日本大震災と、それに伴う大津波の被害、そして、福島第一原子力発電所の大事故、これらはいまだ現在進行形であり、とりわけ、福島第一原発の事故は何の収束の目処も立っていないまま、日本政府は鹿児島県川内原発を再稼働させてしまった。東日本大震災以降、日本列島は地震の揺籃期に突入したように思われる。あちこちの活火山も噴火し始めた。私は子供の頃に何度も訪れ、そのカルデラを覗き込んだ阿蘇山が噴火したことで、昭和的なものが次々と終っていくように感じたが、もう一度考えてみると、はたして昭和的な何かが終わることなどあるのだろうかと思い直した。昭和的な何かが完全に終焉したとき、私たち日本人は幸せな状態だろうか、それとも、不幸な時代を迎えているだろうか。未来のいつの日か、それをこの目で見届けたいとも思うが、おそらく、昭和的な何かが終わることなどあるまい。私自身は、昭和というものをそう捉えている。

 余談になるが、母方の祖母が危篤状態だったとき、一人で病室に赴いて、祖母に話しかけた一連の出来事の記憶が蘇ってきた。私は、確か、「お祖母ちゃん」と何度か呼びかけ、それに対して、祖母は極薄く目を開けたのだった。祖母の死に目には会えなかったが、私にとってはそれが、祖母との密約めいたお別れの記憶となっている。

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