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【映画】嘆きのピエタ

韓流ブームと韓国映画

 2004年に日本で放映された韓国ドラマ「冬のソナタ」は絶大な人気を博し、その後の韓流ブームの発端となった。とりわけ、主演俳優のペ・ヨンジュンは、数多くの熱烈な女性ファンを日本各地に生みだし、「ヨン様ブーム」という社会現象にまでなった。しかし、あれから十年あまりが経った現在、「韓流ブーム」という言葉の浮遊は去ったと思われる。要するに、韓国ドラマが日本において、日常となったのだ。

 この流れはテレビドラマには及ばないまでも、映画にも反映されている。日本の大都市であれば、映画館で韓国映画がリアルタイムで上映されるようになったし、DVDのレンタルショップへ行けば韓国映画のコーナーが常設されている。しかしながら、邦画と洋画、韓国映画、そして、他の国々の映画という区分に着目してみると、韓国映画という区分はやや独立し過ぎているように思われる。洋画という区分には、ロシアや東ヨーロッパを含めた広義のヨーロッパ映画と、アメリカ映画が入り混じっている。ところが、韓国映画は、他のアジア諸国の映画から区分されており、独立している。これが、経済発展的要因に基づいているのか、それとも、歴史的経緯に基づいているのか、あるいは、全く別の要因なのかは定かではない。そして、近い将来に、洋画という区分のように、韓国映画もまた、アジア映画という区分に収斂されていくのかどうかも分からない。しかし、近くて遠い国といわれてきた韓国が、コンテンツの領域では、日本人にとって身近なものになったことは確かだろう。

映画「嘆きのピエタ」のあらすじ

 2012年にキム・ギドク監督、脚本の「嘆きのピエタ」というタイトルの韓国映画が上映された。この映画は第69回ヴェネツィア映画祭コンペティション部門金獅子賞を受賞している。三大国際映画祭で最高賞を受賞した韓国映画は、キム・ギドク監督の「嘆きのピエタ」が初めてだったそうだ。

 大まかなあらすじとしては、両親の愛情を知らない孤独な借金取り立て屋の若者が、日々、町工場の債務者などに借金の取り立てに回る。借金の元金も利息も返済できない場合には、若者は債務者を情け容赦なく工場の機械で障害者にし、その保険金を受け取る。心の荒んだ生活を送っている若者のもとに、ある日、自分が母親だと名乗る謎の女が現れる。若者はその女を母親だとは信じずに、頑なに無視する。しかし、それでも、女は執拗に献身的に若者の世話をし続ける。若者は母親だと名乗る女と強引に姦通するが、女は涙を流すものの、それを拒まない。それどころか、女は若者の手淫の手伝いまでしてみせる。やがて、ついに、若者はその女を母親として受け入れていき、愛情に飢えていたが故か、今度は逆に、極端に女の母性に甘え始める。母親を名乗る女と布団を共にして寝たり、女が編んでいるセーターを自分へのプレゼントだと錯覚したり、まるで恋人のように、はしゃぎ回って街中でデートをする日々を送る。しかしある日、突然、女は消える。以前、自らの手で障害者にし、自分を憎んでいる債務者たちの誰かに母親を名乗る女が誘拐されたと考えた若者は、必死に債務者たちの町工場を探し回る。若者は母親だと名乗る女から電話を受け、廃墟になったビルの屋上から誰かに落とされるという女の言葉を信じ、土下座して殺さないでくれと懇願する。しかし、女は若者の目前で、廃墟のビルから飛び降りて死んでしまう。飛び降りる直前、若者を見つめる女の表情に浮かんだ微笑は、慈悲とアイロニーが混交している。若者は約束どおり、松の木の下に女の遺体を埋葬しようとして、土を掘り起こす。そこには若者が以前に障害者にした債務者の青年の遺体が埋葬してあり、その遺体には、母親だと名乗る女が自分のために編んでいると信じ込んでいた、あの手編みのセーターが着せられている。母親だと名乗る謎の女の、命を賭した復讐、つまり、真実を知った若者は、生まれて初めて愛する人を失ったことで、悲嘆の涙に暮れる。そして、ラストシーンで若者は、自らを巻いた鎖をトラックに繋ぎ、発車したトラックに引きずられつつ、道路に血の痕を残しながら、孤独に死んでいく。

不完全なピエタの像、聖母マリアの不在、アイロニー

 ピエタとは、十字架に磔刑にされたイエスの死屍を、聖母マリアが慈悲深く抱いている、ミケランジェロの彫刻像である。「嘆きのピエタ」という映画に照らし合わせると、聖母マリアは、借金取り立て屋の若者のもとに、突如、姿を現した母親を名乗る女に対応し、もう一方では、若者が障害者にし、自殺した青年の母親に対応するかに思える。しかし、後者の聖母マリアは存在しないだろう。若者に障害者にされ自殺した青年には、映画内における限り、罪の概念は存在しないからだ。よって、ここでのピエタの像とは、若者に我が息子を殺された母親が、偽の母親を演じて接近した若者を抱くそれとなる。つまり、聖母マリアが慈悲深く抱くのは、自分の息子を死に追いやったイエス、つまり、復讐心から母親役を演じた孤独な罪人、若者である。しかし、慈悲深いそのピエタの像は完成することがない。なぜなら、イエスよりも先に、聖母マリアが死んでしまったからだ。「嘆きのピエタ」とは不完全なそれなのである。

 映画の途中で、若者が母親を名乗る女を強引に姦通する場面がある。女は涙を流しながらも抵抗しない。この涙と無抵抗は、おそらく、二重の悲嘆を含んでいる。自分の息子を死に追いやった若者に犯されている母親としての悲嘆と、自ずと復讐心を抱いて接近し、見知った若者の孤独と荒みきった心に対する普遍的な母性としての悲嘆である。ありふれた設定で、見過ごされそうだが、この映画で最も重要な場面のひとつではないだろうか。

 孤独な借金取り立て屋の若者は、母親の愛と罪に翻弄されながら、ラストの自殺のシーンまで孤独であり続ける。贖罪の死さえも、母親、つまり、聖母マリアに看取られることができない。しかしながら、若者の贖罪の死は、映画を観る者たちの視点に見届けられる。つまり、この視点は、我々、観客である。よって、観客に突きつけられるのは、映画「嘆きのピエタ」全編を通底する、若者の善と悪という道徳的な裁きと、若者の贖罪による救済だろう。この映画において観客は、救済されると同時に、裁判官としての役目を課せられるのだ。

 このように、映画「嘆きのピエタ」は、二つの母親としての側面をみせる女が、廃墟のビルから飛び降りる直前に見せたアイロニカルな微笑に象徴されるように、不完全なピエタの像と聖母マリアの不在、そして、贖罪による救済がスクリーン内で完結しない、という意味において、徹底的なアイロニーに満ちた映画といえるのではないだろうか。

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