【エッセー】人生の黄昏において

 人生の黄昏を知った人間は、名残惜しいような諦念と、覚悟の間で揺れ動く。生への名残惜しさとは、彼が人生において何を行為したか、何を獲得したか、つまり、彼の記憶に残存している何に未練があるかではなく、彼が何を行為できなかったか、何を獲得できなかったかという、ありえたかもしれない違う人生、可能性への未練だろう。しかしながら、結局、彼はあらゆる事柄を諦め、この人生を生きるしかなかった偶然性を受け入れて、覚悟を決める。言うまでもなく、それは、死の覚悟だ。不思議なのは、人生を諦念し、覚悟を決めると、死は、死の側から誘惑してくることだ。彼は、自身の死が確実に前方で待ち構えている事実を受け入れると、今度は逆に、その死を期待するようになる。つまり、死とは何か、死ぬとどのような現象が自分の身に起こるのか、ということを早く知りたいと思い始める。その深淵を早く覗き見たいと、強く願う心境に変化するのだ。それが、死の誘惑である。

 小説家の村上春樹は『1Q84』という小説において、過去を書き換えたいという切実な欲求を、おそらく、初めて公に読者に晒した。村上春樹は小説家としてデビューして以来、その巧みなレトリックで、重要な何かがあることを隠し続けてきた。殊に、デビュー以来の三部作では、一貫して、その方法論を駆使している。当然ながら、その方法論は、隠されているもの、つまり、重要な何かを、逆に、浮き彫りにする。それこそが、イロニッシュな小説家としての村上春樹の意図なのだが、無邪気なファンは、見かけ、重要な何かからそっぽを向いてみせる主人公の態度に傾倒してしまう。しかし、それはそれで悪いことではない。

 村上春樹が『1Q84』で書いたことは多岐に渡るが、ある一面だけを切り取れば、あのパラレルな小説の中で、村上春樹は初恋という純粋無垢な思春期の淡い恋を執拗に描いている。天吾と青豆という、それぞれ子供時代に親の無自覚でエゴイスティックな拘束を受けて育った二人が、自らの意志でそこから自由を得て、十数年後に偶然の力によって再会する。それは、私には叶わなかった過去の初恋の書き換えのように映るが、もちろん、村上春樹の初恋が叶わなかったわけではなく(私はそんなことは知らない)、そう読んでしまう私の初恋が叶わなかっただけだ。しかしながら、小説とは、ある意味では、過去の記憶の書き換えである。人間は自分が知らないこと、つまり、脳にインプットされていない記憶を要素に小説を組み立てることができない。それは、他人の記憶を知らないことと同義であり、だからこそ、人間は他人の書いた小説を読むのである。

 少し話が逸れたが、『1Q84』における天吾と青豆の再会を運命的なものとして読んでしまうと、我々読者は、小説家の自由を剥奪することになる。なぜなら、それを書いた小説家もまた、運命によってその小説を書いたことになってしまうからだ。言い換えると、あらかじめ、村上春樹が『1Q84』を執筆することが決定されていたことになる。保坂和志が『小説の自由』で書いたように、小説を書くという行為は、作者の意図を越えて、作者すら知らない領域へと、作者と読者を導いていく運動なのだ。それは、偶然性の全肯定である。つまり、Aだったかもしれないが、結果的には、Bでしかありえなかったという、「この世界」を全肯定することだ。

 運命論について少し触れておきたい。運命論者は、この世界で起こる出来事があらかじめ決定されているという立場をとる。そこでは、人間の自由な自己意志は否定されるだろう。例えば、ある人間が目の前のカップを手に取るか、取らないかを選択する。彼はカップを手に取る。その彼の行為は運命によってあらかじめ決定されていたのだから、彼の行為は必然である。更に、彼の選択的な思考もまた、あらかじめ決定されていた必然となる。この立場をとると、人間はまるで脚本どおりに演じている映画俳優のようにならざるをえない。今、この瞬間、彼が目撃した出来事や、彼がとった行為、それらが逐一、後付的な意味となるのだ。彼は行為の後に、自分の行為を振り返り、その意味を考えずにはいられない。そこでは、ある時点で彼がある行為をとったことが、次の時点で彼が行為するかもしれないある行為に影響をもたらさない。彼のあらゆる行為は、あらかじめ、運命によって決定されているのだから、彼は自分の行為を過去の行為に関連付けていく。時間の感覚は未知の領域に開かれることなく、常に、過去に向かう。やがて、彼は関係妄想に陥るだろう。このように、運命論は過去の行為を相互に関連付けてしまうことから、人間をパラノイア的にしていき、統合失調症患者の増大を招くかもしれない。しかしながら、運命論が決定的になったとき、実際には、人間は思考を放棄するだろう。考えても仕方がない、なるようになる、という風に。私自身は、運命論を否定したいが、それでも、宇宙に想いを馳せると、運命論者に転向してしまいそうになることがある。2掛ける2は絶対に4なのだから。

 死刑囚や不治の病の末期患者のように、予め自分の死が迫っていることを知り、それを受け入れた人間にとって、見慣れた風景は一変する。馴染みのある風景や、これまで知らなかった風景、それらひとつひとつが、かけがえのない風景に変わるのだ。例えば、普段、何気なく見過ごしてきた花々の名前を知ろうとしたり(まるで晩年のルソーのように)、山の深い緑に畏怖の念を抱いたり、等々である。それまで登山に興味のなかった彼は、山へ登ってみようと考えるかもしれない。しかし、山に生い茂る圧倒的な緑に恐怖を感じ、もしかすると、永遠に頂上に辿り着けないのではないかと逡巡するかもしれない。彼は山が迷宮であること、カフカ的であることに気づいたのだ。それは、死を前提に生活してみなければ、彼が永久に気づかなかった事柄だ。

 そして、人生の黄昏を知った人間が、最期に辿り着くのが、海である。地球上のすべての生物の母であり、そこから数々の淘汰と進化の過程を経て、今、人間である彼にとって、海は還っていく場所としての象徴である。多くの詩人が、海を謳った。しかし、今、海が永遠ではないことを知っている彼は、海を謳わないだろう。彼にとって、海はあくまでも還っていく場所としての象徴である。やがて、彼が死を迎え、その肉体が滅び、地球上の物質として堆積されるときを、彼は想う。そのとき、彼は、もはや永遠ではないこの地球ではなく、遠い宇宙を想うに違いない。その際、宇宙が有限か無限かは、彼には関係のないことだ。今の彼にとって、遠い宇宙は永遠であり、意識の果て、どこでもない場所としての象徴なのだから。まるで、それが運命であるかのように。