【映画】Buffalo'66

【ユーモアからヒューモアへの転換】

 映画「Buffalo'66」について、今更語るべきことは何もないように思える。それでもこの映画について何かを語るとするならば、少しだけ着眼点を変えなければならない。つまり、ありきたりな鑑賞の仕方ではなく、私はこの映画から少し逸脱する必要があるはずだ。

 ヴィンセント・ギャロ演じるビリーが五年の刑期を終えて刑務所から出た後、薄っすらと雪が残る路上をやや早足で歩き回った挙句、再度、刑務所に入ろうとする。鑑賞者は、赤いブーツに上下グレーの服を着たビリーの姿と寂寞とした街を、まるで俯瞰するように、上空から追う。その間、ビリーは腕を組んで膝を折り、横向きになってベンチに寝転んだりもする。その姿は、孤独な男そのものだが、再度、刑務所に戻ったところで、鑑賞者は、ビリーが尿意を我慢していたことを知る。色褪せた映像はシリアスを醸し出しており、映画の始まりを、色彩の絶妙が演出している。

 ビリーはダンス・スクールが入っている建物で、後に強引に拉致する格好になるクリスティーナ・リッチ演じるレイラと出会う。彼はレイラから金を借り、両親に電話をかける。そして、嘘の職業をでっちあげて刑務所に入っていた五年間を誤魔化す。更に、妻を連れて帰るとまで約束してしまう。もちろん、その間、彼はまだ尿意を抱えたままだ。尿意と苛立ちを、臆面もなく電話先の両親に浴びせるビリーの怒声を、拉致される前のレイラは聞いている。この電話の場面でのビリーの癇癪的な態度と、レイラが彼を見つめるまなざしは、この映画を決定的に規定しているかもしれない。

 ところで、ユーモアがユーモアとして成立するためには、シリアスな状況、あるいは、環境が要請される。ビリーの尿意が漸く解消されるのは、レイラに彼の妻の演技を強制し、彼女に実家までの運転を任せている最中だが、それは、あれだけ彼が探しまわったトイレではなく、結局、木立の横、網状のフェンスに向かう路上でのことだった。一連のビリーの行動をユーモラスと表現せずに、いったい何をユーモラスと表現するべきだろうか。

 通説をいえば、映画「Buffalo'66」は、ひとりの孤独な男と、愛の欠損としての無関心な両親、そして、その欠けた愛を埋めるために現れる天使のような女とのラブ・ストーリーである。そこに、裏切りと誤解、復讐、挫折といった要素が入り混じる。刑期途中のビリーが親友グーンに復讐を語る場面からわかるように、この映画は始めから復讐を前提として構成されている。つまり、とてもシリアスな映画なのだ。

 しかし、シリアスが増せば増すだけ、私たち鑑賞者は、ユーモアに満ちたまなざしでビリーを観ることになる。そこでは、私たちは笑いを堪えることができない。この残酷なまなざしを、私はヒューモアと呼び替えることに躊躇しないだろう。ビリーが両親に電話をかけた場面におけるレイラのまなざしが、既に二人の愛を決定していたのだから。

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