【エッセイ】釣りについて

 釣りという行為には何かしら考えさせられるものがある。その行為は釣りをしない人々が一般的に抱くイメージとはかけ離れている。凡その釣りをしない人々がそれに抱くイメージは、照りつける太陽の下、老若男女が海を呆然と眺めながら、竿から釣り糸を垂らしている間延びしたイメージだろう。そのイメージは釣り人の受動的な身体拘束性を想起させるに違いない。

 しかしながら、実際の釣りとはその正反対である。仕掛けを作り、糸を結び、餌を釣り針に付け、そこでやっと竿から釣り糸を海に放ることができる。そして、もし魚が釣れたならば、釣り人は魚を釣り上げ、釣り針から外し、もう一度、同じ動作を繰り返す。大漁であればあるほど、この動作の反復は多くなる。つまり、時間的な身体拘束性はあるものの、釣り人とは能動的である。

 海は見飽きるということがない。おそらく、それは常に波が躍動しているからだろう。波は何度も何度も永遠を想わせるように海を漂い、岸壁や砂浜に打ち寄せてくる。一見、その反復には差異がないように思えるかもしれない。しかし、遠くから幾度も打ち寄せる波と波が一度として同じ波であったことがあるだろうか。波とは常に一回性なのだ。

 環境が釣り人の身体を拘束するという意味では、釣りは映画に類似しているかもしれない。つまり、釣り人とは映画館という環境における観客のアナロジーでもある。風によって起こる波は穏やかに緩やかに海を揺籃のようにたゆたう。しかし、そこには船舶の移動や、海底地表の動乱、その他、物理学的な要因によるノイズが必ず混淆する。その意味で、海における波もまた映画的だといえるだろう。映画におけるノイズとは、言うまでもなく、モンタージュ内の運動である。ただし、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』を持ち出すまでもなく、現代の複製技術時代においては「動き」を動画にしてコピーすることにより、一回性のアウラは消えてしまう。しかし、条件付きだが、撮影可能なコンタクトレンズが生まれるまでは、一瞬の目撃による一回性のアウラが消失することはないのかもしれない。

 以上のように、釣りという行為、及び、海における波は、環境としての映画に類推できる。釣り人と同じように、映画観客もまた忙しなく思考する。それでも、双方に違いがあるのは、人間が瞬間的に海を目撃したときに抱く、海への畏怖の念ではないだろうか。あるいは、自然への恐怖と言い換えてもいいだろう。