【エッセイ】コズエちゃんの思い出

 ロラン・バルトが「まなざし」について書いていた本を本棚から引っ張り出そうとしていたとき、ドアのチャイムが鳴った。昨日注文したAmazonからの配達だった。すぐに梱包を破ると、ロラン・バルトの『明るい部屋』が新品のまま、まるで私を責めるようにダンボールに収まっていた。

 私には同じ本を二冊買ってしまう癖が以前からよくある。色んな本を二冊ずつ持っていて、一冊は必ず誰かに譲ってしまう。そうした後で、ようやくその本を読むのだ。

 もちろん、その逆もある。先に読んでいる本を男女の友人や恋人にプレゼントするのだ。例外として、大岡昇平の『野火』をとある風俗嬢に譲ったこともあるが、最も多く女性の友人や恋人にプレゼントした本は、村上春樹の『ノルウェイの森』だっただろうか。あの赤と緑のクリスマス風の装丁を彼女たちは喜んで受け取ってくれたが、小説を読んだのかどうかは一度も訊ねなかった。多分、彼女たちの感想について、私自身が興味を持っていなかったせいだろう。あの小説をプレゼントした回数は忘れてしまった。そして、今、私の手許に赤と緑の『ノルウェイの森』はない。

 ロラン・バルトは『明るい部屋』のなかで、人物写真がそれを観る者に訴えかけてくることについて、二通りの解釈をしていた。その写真を「分別のある広告的なもの」として観るか、あるいは、それを「始原的な歴史性を伴った狂気」とするか。それを判断するのは観る者その人であると。

 ふと、コズエちゃんはクリスマスのように彩られた『ノルウェイの森』を読んだだろうかと想い浮かべてみる。コズエちゃんは疎遠になった昔の女友達だが、おそらく、読まなかったのではと今思う。知り合った当時、コズエちゃんは美容師の見習いをしていた。言うまでもないが、美容室というのは広告的で記号的な写真に満ち溢れた場所だ。言い換えれば、クリスマスのように彩られた『ノルウェイの森』という本を小奇麗に並べる場所なのだ。もちろん、待ち時間には美味しいコーヒーも淹れてくれる。

 ここで、コズエちゃんを媒介にして、ロラン・バルトの『明るい部屋』で述べられていることと、村上春樹の『ノルウェイの森』が関連し合う気がして仕方がない。誤解を避けるために書いておくが、私はコズエちゃんを貶すつもりは毛頭ない。だから、錯覚か妄想であってくれればと心から願っている。それでも拭い切れない「関連」を、私はどう処理しよう。

 一旦、風呂に浸かったまま、頭の中を整理したような記憶が、今これを書きながら蘇ってくる。しかしながら、風呂上がりに鏡の中で見た自分の鼻が異常に伸びていたこと、頭部がまるで象のように変化していたことで、私の懸念はもう『ノルウェイの森』どころではなくなった。私は鏡の中でエレファント・マンになった自分を、畏れと慄き、そして狂気を持ってまなざした後、帰る森もないままに、諦念とともに今これを書いている。