【書評】小野美由紀/メゾン刻の湯

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 雑多な人々がひとときのあいだ寝食を共にするシェアハウスでは、人間関係の様、あるいはそこを利用する形態もまた雑多である。コミュニケーションを求めてそこへやってくる人、生活のためだけに一時的にそこを利用する人、そして、密なコミュニケーションなしに両者の間を行き来する人。更には、姿さえ露わにしない人々もいる。余程、関係性が密にならない限り、住人同士が双方の内面に深く踏み込んだコミュニケーションは交わされない。ここでは、上記の「密なコミュニケーションなしに両者を行き来する人」を少々取り上げてみたい。

 どこからどういう理由でシェアハウスにやって来たのか分からない他人同士が、どこでどうやって生活しているのか分からない人々の世界、つまり、社会の中で、単にひととき同じ屋根の下で暮らしているという理由だけで、同居人たちの内面に深くコミットするのは酷く疲れる。よって、シェアハウスでは「密なコミュニケーションなしに両者を行き来する」ことが多く選択される。そのような住人を東浩紀の提唱する「観光客」的な住人と定義しておく(「観光客」についての詳細は省く)。

 しかしながら、銭湯を舞台にシェアハウスの住人が描かれる本書において、小野美由紀は「住人の内面」に深くコミットする。主人公の「僕」を含めた七人の登場人物たちは、それ故に、他の住人の言葉に傷ついたり、喜んだり、お節介を焼いたりと、まるで「家族」のように共同生活を営む。それでも、あらゆる「家族」と同じように、この共同生活にも終わりがやってくる。あらすじは省くが、ある意味では、本書を「僕」の一年に渡る成長物語と捉えても良いかもしれない。

 ところで、平野啓一郎は『私とは何か――「個人」から「分人」へ』において、複数の他人の内面と対峙する「個人」の負担を軽減する概念として「分人」を提唱している。小野美由紀の描いた複雑な人間関係の中で、主人公の「僕」は多く傷つきながら、それでも立ち上がって歩いていく。各章で描かれる雑多な他人と「僕」との距離感を、「分人」的と言い換えるのは決して間違いではないだろう。

 最後に、本書の肝は「僕」を含めた七人の登場人物に対する作者=小野美由紀の「視線」である。銭湯シェアハウスという窮屈な共同生活の中、それぞれの登場人物はキワモノ揃いでありながら、どこか優しい。その優しさをもたらしているものこそ、作者=小野美由紀の「視線」なのである。