【書評】吉田修一/悪人

 この小説を普通に読めば、善と悪との二項対立の結果としての善悪の不在、とでもいったものに帰結してしまうだろう。そのような小説は近代以降既にありふれたものとなっており、読者をそこに駆り立てる技術の巧拙、つまり、アミューズメントとでもいったような要素がなければ、なかなか読者にページを捲らせることは難しい。では、そうではない観点からこの小説を読むことは可能だろうか。

 福岡市を中心としてその周辺地方都市を舞台に展開されるこのメロドラマを、もう少し大きな円として見てみると面白いかもしれない。それは、東京という中心から見たその周縁である福岡市とそのまた周縁である地方都市という観点である。戦後の高度経済成長、及び、その資本によって、地方都市における地域共同体とでもいうものは解体した。その結果、地方都市は奇妙な発展を遂げる。それは、日本全国総東京化である。そのような地方都市を、アトム化した個が寄る辺のないままにふわふわと漂っている。それがこの小説の大まかな構造である。

 なるほど、登場人物たちは確かに九州の言葉を喋り、福岡市とその周辺を舞台に行動している。しかし、注意深い読者ならば、その登場人物たちの行動にある種の違和を持つかもしれない。その違和とは何か。つまるところ、この登場人物たちを、東京を舞台にして行動させても何もおかしくはないのだ。要するに、登場人物たちは福岡市とその周辺において、東京に住む人間の真似事をしているのである。そこにこの小説の無邪気さとでもいうものがある。

 しかし、私はその無邪気さを特に批判的に見ているわけではない。むしろその徹底的な無邪気さこそが、現代における地方都市の在り方を的確に映し出しているのだし、そして、吉田修一はそれに成功しているのだ。この小説を読んだ人には当たり前の云い方になるが、『悪人』には「悪人」は一人もいない。登場人物の誰もが幸せを求めて生活し、日々の暮らしを生きた結果のすべてがここにある。では、吉田修一はなぜこの小説をベタに『悪人』としたのだろうか。「悪人」とは誰を指しているのか。その答えを知っているのは、当然、吉田修一である。つまり、著者である吉田修一の「東京からの視点」こそが『悪人』における「悪人」なのである。