【書評】白い孤影 ヨコハマメリー/檀原照和

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檀原照和

 嘗て、横浜市中区黄金町に、所謂、「ちょんの間」という違法な風俗街が広がっていた。通りを冷やかすと、真っ昼間であるにも関わらず、下着姿に近い恰好をした多国籍な女性たちが「お兄さんいかが?」と声をかけてくる。私自身は、衛生的な理由から「ちょんの間」を利用した経験はないが、脳裏に焼き付いて離れない光景がひとつだけある。

 それは、ある店先でピンク色のスリップ姿の若い女性と対峙したときの光景だ。その若い女性は、その容姿から、明らかに東洋人だったが、私が店先を通りがかっても声をかけてこなかった。珍しい女性もいるものだな、とそのときはやり過ごしたが、その後も度々その若い女性のことを思い出しては忘れるということを繰り返したと思う。

 2005年の通称「バイバイ作戦」によって、横浜市中区黄金町一帯に広がる「ちょんの間」は権力によって一掃された。当時、私はすぐ傍の若葉町にあるマンションに住んでいた。無職で暇を持て余していたものだから、昼夜問わず、警察権力が24時間体制で黄金町の警備にあたっているのを端から見ていたものだ。時々、何も知らない人間を装って、警官と黄金町に纏わる世間話をした記憶もある。

 私が「メリーさん」に興味を抱いたのは、檀原照和著『消えた横浜娼婦たち』を読んだ後、映画『ヨコハマメリー』を観たのがきっかけだった。しかもそれは、私が2005年の暮れに横浜を離れてからのことだ。つまり、私は「バイバイ作戦」によって、横浜に残された最後のロマンが消えていくのと同時に横浜を離れ、その後、「メリーさん」という横浜のロマンを体現しているような存在に魅せられていくという、「遅すぎた横浜ロマン」の追従者だったわけだ。そして、2005年以降、私は横浜市中区には足を踏み入れていない。

 前置きが長くなったが、檀原照和著『白い孤影 ヨコハマメリー』は、私(たち)の甘ったるい横浜のロマン、あるいは、「メリーさん」に纏わり付く幻想を、思い切り突き放してくれる書である。本書において、著者は「メリーさん」その人を追いかけると同時に、「メリーさん」に憑いて離れない伝説を解体することを試みている。つまり、「メリーさん」を目的として扱いながら、「メリーさん」を手段として利用した人物たちを批判しているのだ。それは、カントのいう「他者を手段としてのみならず目的としても扱え」の実践であるかのようだ。

 大まかにいえば、本書の第一部と第二部においては、読み手は、探偵小説を読むかのように、白い孤影に憑かれた著者の姿を追うことになる。実際に著者は、数年に渡り、横浜中を駆け巡り、白い孤影の一次資料を探し回る。果ては、岡山県津市にまで赴き、あらゆる手段を利用して、最終的に「あるもの」を探し止めることに成功する。読み手は一連の手腕に、ある種のカタルシスを得るかもしれない。しかし、著者が「あるもの」を突き止めたときの心情は誰にもわからない。それは、達成だっただろうか。それとも、喪失だっただろうか。

 先述したように、第三部において、著者は白い孤影を巡る横浜の伝説、及び、ロマンを多様な例を出しながら解体していく。そのあまりにも淡々とした語り口に、読み手は多少驚くかもしれない。第一部、第二部までの迫真した著者のイメージを引きずっていると、第三部で著者自身によって思い切り裏切られるからだ。まるで、著者もまた自分自身を裏切るかのように。

 確かに、「メリーさん」の伝説は幾分誇張されてきた感がある。まるで映画『リング』における貞子のように、伝説それ自体が自己増殖、感染能力を持っているかのようだ。「メリーさん」を語る横浜の人々は、「メリーさん」を通して横浜の歴史(ここでは敢えて誇るべき横浜の歴史と言おう)、港町横浜のロマンを語りたがる。「メリーさん」が晩年まで大桟橋から遙か対岸の「幻の将校」を待っていたという逸話にも、真偽のほどはさておき、港町横浜のロマンを喩えている節がある。映画『ヨコハマメリー』にしたところで、あれは既に伝説化、または、神格化された超越的な「メリーさん」像から取り残された人々のための映画だろう。もちろん、「メリーさん」を知るための手掛かりにはなるが、あまりにも「メリーさん」を手段化しすぎている嫌いがある。本書において、著者は外部からの視点でそこにメスを入れており、その「メリーさん」相対化の手腕は評価に値するだろう。

 それでも、やはり、港町横浜には、あるいは、本牧や山下町、伊勢佐木町を中心とした横浜市中区一帯には、ひょんなことからそこに住み着いてしまい、そのロマンに憑かれてしまった多くの人々の亡骸もまた厳然と存在していることは確かだ。それは、男と女、酒と涙、闇と光、等々、人間社会の境界を表すものだ。境界であるがゆえ、まるで幽霊のように捉えどころがない。

 しかしながら、2005年の「バイバイ作戦」によって、ある意味では、港町横浜のロマンは完全に潰えた。もちろん、それが私自身のロマンだった可能性は否定できないが、みなとみらい地区の勃興、及び、伊勢佐木町という街の衰退も含めて、客観的に横浜という街を俯瞰すれば、やはり、嘗て港町横浜が誇ったロマンは消失したと言い切って良いのではなかろうか。

 私にとっての港町横浜における最後のロマンは、冒頭で述べた、「ちょんの間」の店先でピンク色のスリップ姿で出会した物言わぬ若い女性の姿だ。その容姿から、当時、わたしたちは同年齢くらいだったはずだ。そして、その若い女性は、実は、日本人だったのではないかと私は憶測している。更に、その若い女性の顔にはっきりと恥の表情があったことが、私にとっては救いであり、最後の、港町横浜のロマンであったと確信している次第である。