【ノート】ベルクソン『物質と記憶』第一章の個人的な解釈と簡素な要約

 まず、外的世界としてのイメージ群があり、脳から派生する意識もイメージである。当然ながら、視覚を通じて現前する対象物である物質もイメージにすぎない。では、人間は外的世界、及び、物質的対象を知覚しえないのだろうか。そういうわけではない。しかし、イメージ群や意識を知覚に変換するためには、対象物に入り込む作用、反作用的可能性を伴った身体を、それらの中心に据える必要がある。すなわち、イメージから知覚への移行は次のような順序で為される。

 知覚の発生は、鏡像に似ている。基本的には、可能的身体は光線を屈折させながら透過させるが、ある瞬間、光線を反射する鏡になってしまう。しかしながら、その全反射こそが、物質的対象と可能的身体との相関関係、作用、反作用なのであり、そのときはじめて、意識の上に知覚が生じる。つまり、外的世界、イメージ群に囲まれた世界において、可能的身体は中心に位置したのである。中心に立った可能的身体は、既に、知覚した対象物、物質に向けて能動的に運動する。これが、自由意志である。

 自由意志とは、イメージ群にすぎない外的世界、及び、イメージとしての脳、意識が、連続的な時空間のある瞬間において、物質的対象と可能的身体との中間に、情動、つまり、感覚が媒介されたときに生じる、触感的な傷の治癒、あるいは、その拒絶を通じて、可能的身体が物質的対象に向けて能動的に働きかける、作用、反作用、運動の結果としての知覚なのである。

 ここで、ある疑問が浮かび上がる。イメージ群である外的世界、及び、物質的対象を、ある瞬間において知覚した意識は、対象物である物自体を時空間的に、視覚的に、知覚し続けることが可能なのだろうか。ある意味では矛盾するが、結論からいえば、人間は物質的対象をそれ自体、実体としては知覚することができない。そこには、時空間的な遅延があり、つまるところ、経験的な過去の蓄積としての記憶がそれを阻害する。

 例えば、知覚の対象物としての石がある。人間の可能的身体は、自由意志によって、能動的に石に働きかけ、それを知覚することが可能だ。しかしながら、それは表象として石を知覚しているにすぎない。言い換えれば、まやかしのようなものである。人間が対象物としての石をそれ自体として知覚しえた次の瞬間、時空間的に、石は過去の遺物となってしまうだろう。なぜなら、人間の記憶とは過去の過程の持続だからだ。つまり、人間は対象物としての石を、瞬間的にそれ自体として知覚すると同時に、記憶の現前として、表象としてのみ、視覚的に知覚せざるをえない。ここに、人間の可能的身体が、外的世界のイメージ群とイメージ的意識、そして、物質的対象を、時空間的に継続して知覚しえない限界がある。言うまでもなく、それは、遅延を付随した持続的な記憶の魔法である。