【エッセイ】企画展『ヒロシマの記憶を伝える〜町と人々の暮らし〜』から考える

広島市中央図書館で開催中の企画展概要】

 広島市の夏は暑い。地形的に、広島市は盆地ではないものの、市街地が、広島市の代表的な港、宇品や江波から遠いため、海からの風が届かず、街を練り歩く人々は、高い位置にある太陽からの光を、直接、身体全身に浴びるような、そんな感覚を覚えることだろう。しかしながら、私たちが広島市街地を散策するときに体感するあの暑さには、ある種の先入観が植え付けられているのではないだろうか。私は、昔から、常々、そう感じていた。この先入観については、後ほど、考察してみたい。

 先日、77日、広島市立中央図書館で催されている企画展『ヒロシマの記憶を伝える~町と人々の暮らし~』を観に行ってきた。この企画展は、デジタル・アーカイブ、つまり、先の戦前、戦中、戦後を記録したモノクロ写真を、AIによるニューラルネットワーク自動色付け+手動補正によってカラー化し、その写真を、原爆投下によって被爆した方々に見せることで、被爆者の方々の凍っていた記憶を解かす意味合いを込めて、東京大学大学院教授の渡邉英徳氏と、広島女学院高等学校三年生の庭田杏珠氏が、共同で推し進めているプロジェクトの一環として催されている。実際、渡邉氏と庭田氏がワークショップを通じて開発された、iOSアプリとAndroidアプリ『記憶の解凍』の展示も兼ねている。721日には、渡邉英徳氏と詩人のアーサー・ビナード氏、そして、広島女学院高等学校三年生の庭田杏珠氏を招いて、講演等のイベントも行なわれるらしい。企画展自体は、76日から9月1日まで催されているようだ。

【先入観としての悲劇、そして、その魔の手】

 私はTwitter渡邉英徳氏を知り、出来事の瞬間を、モノクロでしか撮影できなかった時代の技術的限界と、現代の技術を駆使してカラー化する営為を、非常に興味を持って注視している。その意味で、ここでは、時代の技術的限界としてのモノクロ写真と、現代の技術によって可能になった事後的なカラー化作業の意義についてのみ、大雑把に考えてみたい。

 広島市立中央図書館の企画展では、モノクロ写真と、それをAIによるニューラルネットワーク自動色付け+手動補正によってカラー化された写真が、12点ほど並べて展示されている。右端には、広島県呉市からみた原子爆弾投下時のキノコ雲の写真が展示されており、題名は「呉からみたキノコ雲」である。その他、被爆前の産業奨励館(現原爆ドーム)や幼稚園児の食事風景、家族の海水浴、等々、原子爆弾投下前の広島市における、広島市民のごく普通の生活が、モノクロ写真とカラー化された写真を上下に見比べ易いように陳列されている。

 それら12点の写真の中で、私が、最も、興味を惹かれたのが、片山昇氏提供による「夜の産業奨励館」と銘打たれた写真である。この写真は、もともと、「片山写真館夕涼み」という題名で、大正末期の『ひろしま日報』に掲載された写真らしい。それを、渡邉英徳氏らがAIによるニューラルネットワーク自動色付け+手動補正によってカラー化したのが、下記の写真である。

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夜の産業奨励館(片山昇氏提供)

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夜の産業奨励館(上記モノクロ写真を渡邉英徳氏らがAIによるニューラルネットワーク自動色付け+手動補正でカラー化)

 写真を観れば一目瞭然だが、大正末期とはいえ、大正時代の広島市民のそこそこ裕福な団欒酒宴が、鮮やかに切り取られた一枚の写真である。しかしながら、私はここで留保する。先程、私は、企画展の右端に「呉からみたキノコ雲」の写真が展示されていると書いた。そして、実際、広島市立中央図書館で催されている企画展は、194586日に、アメリカ軍によって広島市に投下された、原子爆弾を扱ったものである。つまり、端的に、被爆の記憶を伝える企画展だ。ただし、モノクロ写真とカラー化された写真が同列に配置された12点の写真は、右端を除いて、すべてが原子爆弾投下前の広島市民の普通の暮らしを切り取ったものである。

 人間は、技術的限界としての過去の悲劇的なモノクロ写真と同列に、他のモノクロ写真が配置されていると、そこに悲劇的な意味を読み取ってしまうものだ。それが、たとえ、大正時代のそこそこ裕福な市民の団欒だとしてもである。私は広島市中央図書館の企画展における左から右への写真配置が、意図的なものなのかどうかは知らない。しかしながら、右端の「呉からみたキノコ雲」が意味するものと同列に、原爆投下前の広島市民の普通の暮らしを切り取ったモノクロ写真が配置されていれば、人間はそのモノクロ写真に、原爆投下後と同様な、悲劇的な意味を見出すだろう。それが、先入観であり、そして、人間はその魔の手を排除することができないのである。

【モノクロ写真をAI技術によってカラー化する意義】

 最後に、渡邉英徳氏と庭田杏珠氏が主導して取り組んでおられる、デジタル・アーカイブ、過去の技術的限界としてのモノクロ写真と、現代の技術を駆使したAIによるニューラルネットワーク自動色付け+手動補正におけるカラー化の革新的意義について、私なりの見解を述べておきたい。

 凡そのことは、先述したと思うが、悲劇的であろうがなかろうが、過去の技術的限界としてのモノクロ写真を、現代の技術を駆使してカラー化することの意義は、歴史それ自身が、歴史の渦に巻き込まれ、消えていくことを防ぐ可能性、そして、歴史の継承を、観る者に思い起こさせる可能性の可視化である。簡単な言葉でいえば、「過去にこんなことがあったのだね、可哀想だったね」で終わる会話が、「今のシリアやイラクもこんな感じなのだろうか」といった風に、視野が拡がる可能性である。思考の変性といっても過言ではないだろう。もちろん、興味のある人々は、ネットでシリアやイラクの現状を、カラー写真やカラー動画を観て、リアルタイムで知っている。しかしながら、これまで、それらに興味のなかった人々を、歴史の渦から救い出し、歴史に対峙させる可能性、そのような力学が、渡邉英徳氏を中心としたデジタル・アーカイブ・プロジェクトにはある。謂わば、それは、人間の知性と、歴史への畏敬の念に対する、試金石なのだ。