連載『今を生きづらい君たちへの戯言』〜第一回「穴の周囲を徘徊するように」〜

第一回「穴の周囲を徘徊するように」

 君たちが、もし、今、生きにくいと感じているなら、それはそのとおりである。しかしながら、少しだけ勘違いもしている。それは、いつの時代も生きにくいはずだからである。もし、そうでなければ、世界中に、あれ程の分量の書籍は生まれていなかっただろう。書籍でも、本でも、どちらでも構わないが、今現在、読書をするということは、知識を身につける勉強、言葉を自己に内在化する手段、ストーリーを楽しむための娯楽、おそらく、この三点に分類されていると、私は考えている。これを読んでいる君たちも、もしかすると、それに心当たりがあるかもしれない。具体的にいえば、受験勉強のための参考書や外国旅行で現地の言葉を流暢に使いこなすための語学勉強、これらは先に書いた、知識を身につけるための勉強に当て嵌まる。それは、外国語だけに限らない。これまでの人生で、君たちが知らなかった母国語を、何らかの書籍を読んで学習し、覚えることも、勉強の範疇に入るだろう。そして、巷の本屋には、娯楽のための良質な小説が溢れている。私は、君たちが、このように書籍、または、本を利用することを、特別、批判するわけではない。君たち以外にも、書籍を勉強のための手段として利用する人々は大勢いるし、余暇の娯楽として良質な小説をゆったりと楽しむ人々もいる。その人々の中には、本を読むこと、それ自体が目的化している人々すらいるのだ。そして、繰り返すが、私はそれを、特に、批判しているわけではない。

 しかしながら、読書をしようと試みる人々というのは、基本的に、根源的に、自分の中に何か得体の知れない獰猛なゴジラのような異物を抱えているのであって、私がまず君たちに自覚してほしいのは、君たちのその不可解な変態性である。君たちは、自分が普通になろうとしてはいけない。普通になろうとするのなら、読書など必要がない。少し煩わしいことを言うが、君たちは、自分自身の変態性を自覚し、尚且、普通でなければならない。つまり、変態になってはいけないし、普通になってもいけない。分かり易く言えば、前方に穴があることを自覚しつつ、それでも、君たちはその穴に向かって進まなければならない。そして、君たちは、穴の一歩手前で、穴の周りをぐるぐると回り続ける。決して、穴に落ちてしまってはいけない。あくまでも、穴の一歩手前で止まり、そこを周回するのである。穴を周回し続けるだけだからといって、君たちは、楽しむことを禁止されているわけではない。どんな状況下においても、君たちは楽しみを見い出すだろう。

 話を元に戻そう。もし、君たちが、心から読書に何かを求めるのなら、おそらく、君たちは、いずれ、君たち自身に出会うはずだ。本当に優れた書籍や本、小説というのは、君たち自身を君たちに提示してくれるものだからだ。もちろん、私には、君たちにどの書籍や本、小説を薦めれば良いのかはわからない。それは、君たちが本屋やネットを駆けずり回って、君たち自身の書籍や本、小説、電子書籍を、君たち自身の身体を使って見つけ出さなければならない。そうした後、君たちは、この書籍、この本、この小説には、自分自身のことが書かれているということを発見するかもしれないし、残念ながら、一生を賭けてもそれには出会えないかもしれない。言うまでもなく、そういう書籍、本、小説に出会えた人々とは、幸福な人々である。世界は、基本的に、理不尽である。しかしながら、、上述したような書籍、本、小説に出会えなかった人々が不幸だということでもない。それは、結果的に、そうであった、という事実であり、それに出会えなかった人々のうちに含まれる君たちが、そのことで自分を貶める必要は一切ない。君たちは、それを求めて身体を使って行動した。探し求めた。その過程は、あらゆる人々に尊重されるべきものだ。結果的に、探し求めた物は見つからなかったけれども、君たちの行動の過程だけは残るのである。結果は、偶然にすぎない。真に尊重されるべきは、君たちの行動の過程、人生の過程なのだ。結果を肯定するのではなく、過程を全肯定すること、人生において最も重要なのはそれである。

 連載第一回目の最後に、私は、関係性の相対化について言及しておきたい。それは、君たちがこれまでに作り上げてきた様々な他人との関係性を、相対化するということである。理想をいえば、すべての関係性を相対化することが望ましい。関係性を相対化するとは、いったい、どういうことか。相対化については、文字通り、自分が固執している物事や人物、それが唯一ではないということである。もし、君たちの中の誰かが、Aという人物に執着しているとしよう。執着、あるいは、憎悪するということは、興味があるということの裏返しだが、そうであれば、BやC、D、等々、他の人物との関係性を、次から次へと構築していけば良いのである。ひとりの人間が持つエネルギーの総体は決まっているのだから、そのエネルギーをAという人物だけに使うのではなく、他の関係性に分散させてしまえば良い。先程の例でいえば、A、B、C、Dと、4人の関係性を君たちは構築した。ひとりの人間のエネルギーの総体を100だとすれば、君たちは、ひとつの関係性に費やすエネルギーを25に軽減することができる。

 これを現実に置き換えて考えてみよう。Aという人物に執着し、憎悪し、100のエネルギーを費やしていた君たちは、B、C、Dという他の3人の人物が現れたことによってエネルギーを25に分散したのだから、4つの関係性を維持するために、相当、忙しい。おそらく、君たちは、本当に、忙しくなるだろう。更に、新しい他人であるCと出会うことで、Aだけに執着していた過去の自分が愚かに見えてくるかもしれない。新しい君たちにとって、CがAより魅力的かもしれないからである。つまり、関係性の相対化とは、新しい人物と出会い、新しい関係性を構築することによって、自己のエネルギーの総体を分散するだけでなく、より魅力的な人物に出会う可能性があるのだ。そして、その結果、Aという人物に執着し、憎悪していた君たちは、過去の自分が愚鈍に思えてくるだろう。君たちは、ストーカー行為や、そこから派生する殺人にまで至っていたかもしれない過去を恥じるだろう。もし、君たちがAという人物に執着し、憎悪し続け、自己のエネルギーの100を費やしていたなら、そして、盲目であり続けていたなら、君たちは、本当に、現実的に、殺人行為にまで至っていたかもしれない。それは、先に書いた比喩でいえば、穴の中に落ちてしまった状態である。そこでは、損失が発生するばかりか、誰も、一切の得をしない。関係性を相対化するとは、それを回避することでもあるのだ。繰り返そう、君たちは前方に穴があることを知りつつ、その穴に向かって進まなければならない。しかしながら、決して、その穴に落ちてしまってはいけないのだ。君たちは穴の周囲をぐるぐると回り続ける他ない。そして、楽しむ。

 ただし、完璧な関係性の相対化はあり得ない。もし、それが可能ならば、この私は消えるだろう。当然、君たちの固有名も消える。つまり、すべての人間が同じ属性を持ってしまうことになる。その意味で、残念ながら、人類に平等はない。現時点では、人間は絶えず差異化し続けることで自己を保つ他に、発狂を抑える術を知らない。