【エッセイ】あっこちゃんの思い出

 冒頭から滑稽な表現になるが、私がまだ労働を放棄していなかった頃、つまり、二十五、六歳、西暦でいえば、2000年頃、私は仕事が終わると、ほぼ、毎晩のように、浜松町から京浜東北線に乗って横浜の桜木町駅で降車していた。当時の住居は、東横線の反町に近い辺りだったから、本来は、東神奈川駅で降車するべきなのだが、どういうわけか、桜木町駅が私を呼んでやまないのだった。なぜ、あの頃、私は桜木町周辺を徘徊していたのだろうかと、今、これを書きながら、当時を思い出している。

 そうだった。きっかけは、あっこちゃんなのだった。今はもう閉店してしまったが、私が上京して以来、さっぱりその存在を忘れていたスロット店に出入りし始めたのも、あっこちゃん目当てだった。しかしながら、私はスロットの打ち方を忘れていたものだから、当時、最も簡単に打てる種類の台を打ちながら、ずっと、あっこちゃんを眺め続けていた。あっこちゃんは、白く細身の体型に、小動物のような顔が付いている女の子で、ベリーショートに軽くパーマをかけて、その髪の色は黄色に近い茶色だった。顔の特徴は、よくあるように、やはり、目だったと思う。近くで見ると、切れ長ではなく、きょとんとしたような丸い目をしていた。ただし、実際に、きょとんとしているわけではなく、眼光は鋭かったように憶えている。当然ながら、女は男の視線に敏感だから、あっこちゃんも私の執拗な視線にすぐ気づいて、まったくメダルが減っていないにも関わらず、私の台を開けてはメダルを補給してくれた。おそらくは、私にチャンスを与えてくれていたのだと思う。季節はクリスマス前だった。

 私はスロットでいくらか負けると、近くの中華料理屋で生ビールを飲みながら焼き餃子を食べて、ほろ酔いで、深夜の野毛をくねくねと曲がり、伊勢佐木長者町辺りに向かうという、まるで、日課としての散歩のような、それでいて、何の目的もない徘徊を続けていた。野毛を過ぎると、宮川町を通り、そこから、福富町に向かうか、そのまま交差点向こうの日ノ出町駅を横目に、伊勢佐木長者町に曲がる。当時、私は福富町には行かず、伊勢佐木長者町を歩くコースを選んでいた。横浜市中区で最も大きな川、大岡川には長者橋が架かっており、私はよくそこで立ち止まり、欄干に正面からもたれて、あの巨大なビルディング、横浜ランドマークタワーの灯りを眺めたものだった。ちなみに、私は、一度も、横浜ランドマークタワーに上ったことはない。あれは、眺めるものだと思っていたのだ。

 ある夜、私はスロットで、偶然、数万円儲けたものだから、福富町にあるどこかのキャバクラにでも行こうかと、いつもの散歩コースを外れ、宮川町から宮川橋を渡り、軽いカーブになっている通りを歩いた。宮川橋からそのまま直進すれば、福富町なのだが、当時の私はまだこの近辺に不案内で、通りを出ると、いつもの長者橋に出てしまった。伊勢佐木長者町のメイン通りには高級キャバクラ店を除いて、ほぼキャバクラはないから、私は、一度、元の通りに戻り、宮川橋から福富町に入ろうとした。そのとき、ふと、小さなテレクラを見つけてしまったのだった。

 それからの、私のテレクラ通いは、まさに、女の声に呼ばれるようなものだった気がする。実際、当時、私は女のこと以外、何も考えていなかった。もしかすると、バイトを容姿で選んでいるのではと勘ぐるほどに、職場のバイトの女の子は、皆、可愛く、とある女の子とは幕張メッセで催されていた屋内レイヴに、三度、一緒に行くほどの仲だったし、中国系のベトナム人の女の子も才色兼備で、昼休みにはよく一緒にお喋りしながら昼食を摂っていた。しかしながら、私が職場で最も惹かれていたのは、綿矢りさの短編小説『○○ちゃんは美人』の題名に使われている名前の女の子だったが、残念ながら、私はその女の子と職場でどうしても接点を持つことができなかった。分業をするオフィスとはそういうものなのだ。そうであるにも関わらず、バイトの身分だった私は、社員の既婚女性に、社内メール宛てに飲みに行く誘いのメールを送っている。あの頃、いったい、私は何がしたかったのだろう。

 そして、テレクラである。私は、毎晩、何かに取り憑かれたようにテレクラに通った。私が、夜な夜な、テレクラに通っていることは、職場の誰にも喋っていなかったし、誰も知らなかったはずだ。それは、昼の顔と夜の顔の違いのように、隠された怪しい忍びだったのだ。もしかすると、本当に、私はその秘密に恍惚を覚えていたのかもしれない。それは、今でもよくわからない。

 私はそのテレクラで、様々な女の声と対話したものだった。テレクラというのは、出会い目的ならば、決められた時間の中で、素早くアポイントを取らなければならない。だらだらと仲良く話していると、あっという間に時間が来て、対話はそこで終わってしまう。今からカラオケに行こうか、と双方が同意した途端、そこで対話が終わるのだ。そして、もうひとつ重要なのは、女からテレクラに電話するのは無料という点だ。要するに、男が出会い目的であるにせよ、テレフォンセックス目的であるにせよ、舵を取っているのは、女なのであって、店員の常連贔屓はあるにせよ、男は、基本的に、女の気分に遊ばれているようなものなのだった。私はテレフォンセックス目的ではなかった。とはいえ、それほど出会いを求めていたわけでもなかった。出会い目的なら、職場に可愛い女の子がいくらでもいた。私は、あの頃、いったい、何がしたかったのだろう。

 私のテレクラ通いで、最終的に、きちんと女と会うことができたのは、たったの二度だった。ひとりの女については、敢えて、書かないが、もうひとりの女のことは、今でも忘れることができない。私たちは、すぐに意気投合し、京浜東北線洋光台駅で落ち合う約束をした。私はスロットでいくらか儲けていたものだから、テレクラを出ると、すぐにタクシーを拾い、洋光台駅に向かった。テレクラを出るときに、いつもの店員が、行ってらっしゃい、と声をかけてきたのをよく憶えている。

 私が洋光台駅前で煙草を吸っていると、程なくして、同齢と思しき女が現われ、「○○さん?」と、声をかけてきた。私が頷くと、女は少しだけ暗い顔になったが、すぐに、どこどこにラブホテルがあるから、そこに行こうと、私を誘ってきた。もちろん、私の最終目的もそこではあったが、過程をすっ飛ばす女の声に呆気にとられてしまった。ふと、我に返った私は、女の誘導で、少しばかりの会話をしながら、そのラブホテルに二人で入った。部屋の中で、もう一度、少しばかりの会話をすると、すぐに、女がシャワーを浴び、その後、私もシャワーを浴びた。部屋に戻ると、女の表情がさっきと同じように少し曇っていたが、それでも、女は気を取り戻し、微笑みながら、部屋を真っ暗にしてもいいかと訊ねてきた。私はいっこうに構わなかったから、電灯を消し、ベッドの上で女と向き合った。今は、もう、女の顔は憶えていない。ただし、可愛い女の子だなとそのとき思ったのは記憶している。

 双方の同意を前提にいえば、裸になったベッドの上では、名前すら知らない相手であっても、なぜか、男と女は親密な雰囲気になり、まるで、何か秘密を共有しているような錯覚に陥るものだ。私は、心底、リラックスして、女の唇に唇を重ねた。しかし、最後に、あれを見てしまうまでの間、私はその後の行為をすっかり忘れている。そもそも、あの行為に過程があったのかすら憶えていない。

 女はバックの体位が好きだと言い始め、おもむろに、私の前で四つん這いになった。その刹那、私は微かに見える視界に現われた女の背中全面を前に、フリーズしてしまった。女の背中は、全面が隈なく、龍の入れ墨で覆われていたのだった。私がフリーズしているのに気づいた女が、振り返って、私を見た。私は慌てて、動揺を隠し、何食わぬ顔で行為を始めたが、その行為は、女との行為ではなく、龍との闘いのようなものだった。私は龍に飲み込まれては、自分自身を取り戻し、そして、また龍に飲み込まれていく。その繰り返しなのだ。女の喘ぎ声と、女の匂い、それがせめてもの救いだったかもしれない。もしそれがなければ、私は龍の前で萎んでいただろうと思う。私は、無我夢中で、龍と闘った。本当に、我を忘れていたのだ。気づくと、女は仰向けになっていた。女は背中のことを、一切、口にしなかったから、私も何も見ていないふりをしておいた。

 お互いがベッドの上で果てた後で、私は覚悟を決めた。いや、どうにでもしてくれという感情のほうが近いかもしれない。しかしながら、女は何でもない、普段どおりのことのように、冷蔵庫から飲料水を取って飲んだ後で、そそくさとシャワーを浴びに行ってしまった。覚悟を決めたとはいえ、私はその後の展開がどうなるのか、はたして、私は無事にここから出ることができるのか、ということで頭がいっぱいだった。しかし、それもまた杞憂だった。シャワーを浴びて出てきた女は、すぐにタクシーを電話で呼び、帰り支度を始めたのだった。私は、龍のことについては、一切、訊ねなかった。その代わり、また会うことはできるかと、今考えると、かなり馬鹿っぽい質問をしてしまった。もちろん、次はなかった。私は、今、これを書きながら、あの龍との闘いは何かに似ていると考えているが、それが何なのか上手く思い浮かばない。それにしても、あの女は、いったい、何がしたかったのだろう。そして、女の帰り際、友達にでもならないかと、再度、女に訊いた私も、いったい、何がしたかったのだろう。多分、お互い、寂しかったのだと思う。どこか、腑に落ちないが、それが正しいような気がする。

 私は、一眠りして、朝の8時頃、ホテルを出た。洋光台駅は、通勤通学の人たちで混んでいた。いっそ、ここから浜松町の職場まで行こうかと思ったが、私はその日の仕事をさぼった。いったい、龍と闘った後で、仕事をしたい人がいるだろうか。正確にいえば、私は、その日、仕事を辞めた。私が働くことを放棄した理由は、数多あるが、あの夜、あの女の背中に描かれていた龍と闘ったことも一因かもしれない。龍と闘った後で、いったい、誰が労働したいと思うだろう。

 洋光台駅から京浜東北線に乗って、私は桜木町駅で降車した。初めて、朝からあのスロット店に入った。いつもの打ち方が簡単な台に座ると、通路を、あっこちゃんが歩いているのが見えた。龍と闘った後では、あっこちゃんは、より一層、小動物のように見えた。そういえば、クリスマスはもう終わったのだなと、ふと、思い出した。そして、私は晴れて無職だった。いつものように、あっこちゃんが、私の台にメダルを補給しにやってきた。私は、どこに住んでいるのかと訊いてみた。新杉田、と、あっこちゃんが応えた。私は、さっき、新杉田駅を電車で通ったよと、あっこちゃんに喋っていた。どうして、と、あっこちゃんが、再度、訊いてきたが、私は喋ったことを後悔していた。理由なんてないじゃないか。そして、今度、ご飯でも食べに行かないかと、あっこちゃんに向かって言う自分の声を、私は、まるで、テレクラで見知らぬ女に電話で喋った後の自分の声を遅れて聴くような心持ちで聴いた。ふと、テレクラとは、もしかすると、自己対話なのではないかという考えが頭をかすめた。当然だが、私はあっこちゃんにふられた。あっこちゃんは、クリスマスに、誘ってほしかったのだ。スロット店で女店員に声をかけるには、つまり、ナンパするには、その日でなくてはならない。けっして、晴れて無職であることを見抜かれてはならない。私はいつも遅れる。まるで、自分の声を遅れて聴くように。

 今、この文章を終えようとして、ふと、あの龍との闘いが何に似ているのかわかったような気がする。似ているというよりは、それそのものだったかもしれない。私は、私のアナルに自分のペニスを挿入しようと、必死に、悪戦苦闘していたのだ。そして、それは、私が自分で自分のペニスをフェラチオしようとする様に似ている。いったい、私は何がしたかったのだろう。そして、女たちは、いったい、なぜに、私の周囲を回り続けるのだろう。女たちは、まるで、ピンク色のネオンに投影された夜そのものだ。私は、今後も、死ぬまで、その夜を探すことになるのかもしれない。今にも、あのテレクラ店員の、行ってらっしゃい、という声が聴こえてきそうだ。神は賽を振らないが、夜は賽を振る。