【書評】ゲンロン叢書、プラープダー・ユン著『新しい目の旅立ち』

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  タイの作家であるプラープダー・ユンによる『新しい目の旅立ち』は、ノンフィクションの紀行文でありながら、どこか、フィクションのようだ。それは、おそらく、方法論的なことが要因のひとつだろう。著者は、意図的に、探偵小説的な方法論を、本書で使用している。だから、我々読者を、まるで犯人探しの探偵のようにしてしまう。そして、我々読者は著者の柔らかな文体に身を委ねるように、頁を捲ってしまう。その手腕は見事である。もうひとつの要素は、著者自身、フィリピンのシキホール島、『黒魔術の島』に渡航するという明確な目的意識を持っているにも関わらず、どこか憂鬱そうなのだ。それはまるで、小説の登場人物が、憂鬱そうに描かれていることと大差がない。その証拠に、著者は、本書の問題意識をどこから始めるかにあたって、何度も逡巡する。問題意識だけではない、そもそも、本書の始まりをどこに設定するかさえ、往来しながら、探し回っている。そうした後で、著者と我々読者は、いつの間にか、『黒魔術の島』で、若者が運転するバイクの後部に座っていることに、ふと、気づく。つまり、著者の旅は、既に、始まっていた。そんな企みのうちに、本書は始まる。

 紀行文という形態であるからには、著者がなにかを探しながら、『黒魔術の島』を旅するのは、当然である。しかし、本書が少しだけ風変わりなのは、著者が「ぼくはいったいなにから逃げているのか?」と自問していることにある。普通に考えれば、哲学的な紀行文を探偵小説的に書くにあたり、著者は犯人を追跡するだろう。例えば、『黒魔術の島』であれば、魔女や祈祷師たちを怪しみ、探し回る。しかしながら、本書の特徴は、著者があまり移動しない点にある。著者はビーチ近くにあるコテージでベッドに横たわり、時には、海原と大空に思いを馳せ、またある時は、海岸でウニを拾って歩く住民の姿を眺めている。著者は、一般的な身体の移動ではなく、身体と脳を同一視することで、思索の旅をつづける。つまり、著者は思索することで身体的に移動しているのだ。そして、著者は、自問の答えがなにであるかを、薄々、知りつつ、スピノザを引用しながら、身体的に思索していく。著者は、浮かんできた思索を、次々に、批判する。まるで、それまでの著者の思索を、ことごとく、掻き消していくように。その批判における哲学的根拠は、著者の解釈するスピノザである。そして、方法論的に、著者は予め犯人を知っているのだ。我々読者は、著者の思索を最後まで追いながら、最終的に、犯人を見つけ出せばいい。

 著者のスピノザ解釈では、万物は神聖なるものであるから、人間を「自然」から切り離してはいけない。本書で引用されているロック・バンド、ラブ・アンド・ロケッツのNo New Tale To Tellの歌詞(注1)のように、「自然」を他者として見る人間もまた「自然」の内にある。そして、人間も「自然」も隔てなく神聖なのだ。要するに、汎神論的であり、神は万物に宿る。神が万物を創造したのではない。万物が神と同一の位相にあるのだ。このような、著者のスピノザ解釈は、本書で随所に引用される。そして、それを要として、著者は、思索、または、移動による現実的な旅、その経験からの「目」も、次々と批判していくのだ。

 まず最初に、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの唯心論的な欺瞞が、著者によって批判される。ここで、我々読者が、薄々、気づいていた事柄、つまり、著者が唯物論的な人物であることが確実になる。次に、著者は、「ユナボマー」というニックネームで広く知られた、テッド・カジンスキーを批判する。カジンスキーの声明は、要約すると、行き過ぎた資本主義的な人間から「自然」に戻れ、というものだった。著者は、それを、人間と「自然」を分離したものとして、スピノザ的に批判する。著者の批判は、更に、つづく。六十年代にジェームズ・ラヴドッグが提唱した「ガイア理論」を、著者は、人間中心主義に陥る可能性、そして、「自然」に対する特権の付与を根拠に、数頁割いて批判を展開した。しかしながら、これら個々の形而上学的批判は、もしかすると、我々読者にとって、核心ではないかもしれない。上述した、著者による三人に対する批判で、最も括目に値する文脈は、批判対象の三人が、中産階級かそれ以上の生活を送れるにも関わらず、「自然」に戻ることを「選択」できる立場の人間だったという指摘である。しかしながら、貧困層には、そもそも、最初からその選択肢がない。我々読者は、ここに、著者の核心を見出し、この著者を信頼できるタイの作家だと認識するだろう。

 

一方で、日々そのような生活を送っている貧しい人々が、同様の興味関心をもたれることはない――自然と、自然の中に生きることが「他なるもの」に変わるとき、自然の中において「必要」に応じてなされる普通の生活は、英雄・覇者の生き方として格上げされるのだ。

 

 著者は、『黒魔術の島』で、若者が運転するバイクの後部に座り、魔女や祈祷師たちのもとに赴いた。そして、魔術も受けた。しかしながら、それらは著者にとって、取るに足らないことだったようだ。つまり、魔女や祈祷師たちは犯人ではなかった。むしろ、犯行を急かすような存在たちだったかもしれない。本書を最後まで読んだ我々読者は、著者が予め知りつつ、紆余曲折させた犯人探しを、著者の身体的な思索と共に追体験した。その間に、我々読者が知り得た事柄は非常に多い。更に、我々読者は、著者の「ぼくはなにから逃げているのか?」という、切実な自問の答えを知った。つまり、著者と我々読者は「もう帰ることができない」ということを。

 しかし、著者が始めから知りながらも、それを否定したかったはずの犯人、著者が身体的に思索しながら、最終的には提示してみせた犯人を、我々読者も、また、見つけなければならない。我々読者は、犯人を見つけ出せただろうか。そして、無事、違うベッドの上で目覚めることができただろうか。結局のところ、我々読者もまた、現代に生きる都市の人間たちであることを。誰であれ、地球のどこに住んでいようが、その「目」から生きる他ないことを。


(注1)

You cannot go against nature
Because when you do go against nature
It's part of nature too

君は自然に逆らうことはできない

君が自然に逆らってしまえば

それも自然の一部になってしまうからだ