【書評】ゲンロン叢書、大山顕著『新写真論 スマホと顔』

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【写真は写真家自身によって語られなければならない時代へ】

 大山顕氏による『新写真論』は、株式会社ゲンロンから出版された五冊目のゲンロン叢書である。その題名のとおり、本書は写真論のアップデートを試みており、スマートフォンに搭載されたカメラの登場とそれのSNSとの結合を軸に、「顔」や「自撮り」というキーワードで、従来の文脈では語ることができなかった写真論を刷新したものである。とはいえ、本書は、特別、新しいことが語られているわけではない。むしろ、逆である。これまでの写真が、如何に、何も語って来なかったかを、大山氏は本書で語っているのだ。つまり、今後、写真家は自分が撮影した写真について自分の言葉で語らなければならないと、大山氏は写真家に向けて言葉を発する。本書の大枠の主旨はそこである。

 もちろん、『ゲンロンβ』に連載されていた文章を編集、加筆して出版された本であるため、随所に写真にまつわる逸話が散りばめられている。それらはとても興味深いが、ここで私がネタをばらすわけにはいかないので、興味のある方には、是非、本書を読んで戴きたい。特に写真に興味がなくとも、本書に書かれている逸話を読むだけで面白いし、勉強になるはずだ。

 私が、以前、本書を通読し、そして付箋を貼っておいた箇所を、再度、読み返していると、今、私が本書に絡めて何かを書きたい衝動に駆られた箇所が、一点だけあることに気づいた。それが、この文章の動機なのだが、以下、一箇所だけ引用しておく。

 

SNSには大量のヌード写真・動画が投稿されている。……本書では何回か自撮りについて論じてきたが、じつは自撮りの多くがヌード写真であり、実質的にポルノグラフィであるということには触れずにいた。それは、このテーマが生半可な心がまえで論じられるものではないからだ。ただ、本書で語ってきたほかの論題と同じようにヌード写真・ポルノグラフィもスマートフォンSNSによって大きく変わった、ということだけは言っておきたい。……しかし、今や誰からも強制を受けず、金銭的な見返りもないにもかかわらず、大奥の女性が裸体と顔を自ら流通させている。もちろん、だから問題がないなどと言うつもりはない。そういう女性が生まれる社会環境自体が問題であり、それは今までと変わらない。……ここで述べたいのは、こんにちのポルノグラフィを論ずるにあたっては、今まで以上に「見られることの欲望」について重点的に考えていかなくてはならないのでは、ということだ。彼女たちは顔を晒すことのリスクを重々承知しているはずだ。にもかかわらずそうするのは「いいね」やリツイートや多数の閲覧者数や賞賛のコメントが欲しいからだ。顔をめぐってリスクと欲望が表裏一体となって現れる端的な例である。……それにしてもぼくがディープフェイクによって気づいたのは、ポルノグラフィとは「顔」だったのだな、ということだ。「あの人の顔がついている体の図像」はポルノグラフィの完成形だと思う。体が顔の持ち主のものである必要はない。あの人の体を見たいのではなく、あの人の顔がついている裸体が見たかっただけなのだ。その体は誰のものでもかまわない。(p304〜p305の一部を引用)

 

【心霊スポット、石仏の数のズレ、差異の連続】

 話は変わるが、先日、ドライブがてらに、山口県光市室積にある象鼻ヶ岬まで赴いた。この岬は、狭い御手洗湾を綺麗な円形に切り取ったような見事な砂浜のカーブの先端にある。傍には、峨嵋山が聳え立ち、岬の先端には空海を祀った大師堂も建造されている。そのように、仏教、特に真言宗に所縁のある地で、歴史も古く、多くの逸話が残されている場所でもある。しかしながら、ここは、地元では密かに心霊スポットのひとつとして囁かれてもいるのだ。

 なぜこのような奥ゆかしさを持った象鼻ヶ岬が、心霊スポットになっているのかといえば、傍に聳える峨嵋山に沿うように並べられた石仏のおかげである。端的にいえば、この石仏の数が、行きと帰りでは違うという噂が広まり、この場所が心霊スポットになっている。私自身は心霊現象にさほど興味はないのだが、なぜ行きと帰りで石仏の数が違うのかが気になり、それを確かめるために赴いてみた。

 峨嵋山の麓に沿って、車を低速で走らせながら、石仏の数をゆっくりかぞえていく。そうすると、象鼻ヶ岬の先端に辿りついたとき、最後の石仏に彫られている番号は三十九である。私が慎重にかぞえた石仏の数は三十八だった。既に、行きで石仏の数が違う。私は、おそらく、樹々の繁みに隠れている石仏を見逃してしまったのだろうと思い、帰りは数をかぞえるのではなく、石仏に彫られた番号を確認してみた。石仏に彫られた番号は、こう言ってよければ、出鱈目であり、最後のふたつの石仏にはどちらも四の字が彫られていた。つまり、行きと帰りで石仏の数が違うどころか、そもそも、最初から数が違うのだ。なにせ、四と刻まれた石仏がふたつあるのだから、最終地点の石仏に三十九と彫られていても、数が合うわけがない。私はこれが意味のある意図的な何かなのか、その歴史的経緯に無知だが、まるでいかさま師にでも会ったかのように、少々、落胆して帰路に着いた。

 それでも、フロントガラス越しに次々と入れ替わる雑多な車を眺めながら、私が考えていたことは、石仏の出鱈目な数のズレのように、事物が少しずつズレていくということである。それを、微妙な差異の連続と言い換えてもいい。基本的に、私たちの把握している世界は、ほぼあらゆることが、微妙な差異の連続で成り立っている。音楽や文学、哲学、等々、形而上的な事物はもとより、現実生活そのものもまた微妙な差異の連続である。例えば、あらゆる顔がそうだ。双子を含めて、誰ひとりとして他人と同じ顔を持つ人間はいない。そして、あるひとりの人間の顔の中にも、私たちは微妙な差異を見出してしまうだろう。当然だが、昨日の私の顔と今日の私の顔は微妙に違う。それが、目に見える形であれ、細胞レベルの差異であれ、時間の流れというものがある限り、私たちの把握している世界は、微妙な差異の連続でしか成り立つことができない。為替レートだろうが、通貨レートだろうが、それらの差異は、時間の流れによって生じる差異の応用、代替である。

 

【私と同じ動きをする鏡像、他人と幽霊】

 ここで、『新写真論』から引用した、大山顕氏の文章を思い出してもらいたい。大山氏が危惧しているように、確かに、女性たちは承認欲求を簡単に満たすための方法として、自らの裸体を簡単に晒してしまう。それは、当然、社会構造の帰結でもあるだろうし、女性たちが承認欲求を満たすために他の方法を考えない、あるいは、女性たちがネットに自ら自分の裸体を晒すこと以外で承認欲求を満たすアーキテクチャがネット上に存在しない、あるいは、社会に設計されていない、等々、問題は多面体なのだろうと思う。

 私自身はまだフェイクポルノ動画を観たことがないが、想像で言えば、おそらく、一昔前にネットに氾濫したアイコラ写真に端を発しているものと思われる。それが、技術的に、より洗練されて、ポルノ動画になっているのだろう。実際、私がネットで眺めたフェイクポルノ動画らしき動画は、顔を芸能人や有名人にすり変えたものだった。顔が芸能人や有名人のフェイクポルノ動画であっても既に危ういが、もしそれが一般人、俗にいう「素人」だった場合どうだろうか。私であれば、ポルノ動画にフェイクと明記されず、「素人」にカテゴライズされていれば、おそらく、画面の中に映っているその女性の顔と、その顔の女性とは別の女性の体を区別することができないと思われる。つまり、普通に「素人」というカテゴリの中の見知らぬひとりの女性の性行為として、そのポルノ動画を観てしまうだろう。これについては、何も女性だけの問題ではない。男性であっても、自分の知らないうちに、自分の顔がポルノ男優として使われている可能性があるのだ。この問題の悪意は根深いが、おそらく、今後もこの流れを止めることはできないのではなかろうか。

 先述したとおり、大山氏の『新写真論』は「顔」と「自撮り」が大きなテーマである。そして、「自撮り」がスクリーンショットであるのみならず、写真そのものも平面を切り取ったスクリーンショットなのだと、大山氏は断言する。写真は、漸く、スマートフォンの登場で完成したのだと。

 もちろん、私もスマートフォンで「自撮り」をしたことがある。しかしながら、私はどうしても「自撮り」に慣れることができない。はっきりいえば、毎日毎日、鏡を見ているくせに、殊、「自撮り」になると、モニターに映っている私らしき人物に対する違和が拭えないのだ。スマートフォンの「自撮り」だろうが、鏡だろうが、私が右手を挙げると映っている私らしき人物は左手を挙げる。私が左を向くと、私らしき人物は右を向く。笑ってしまえば良いのだろうが、私にはこの私らしき人物が、本当に私なのかどうか、つまり、日常的に私の知人や友人たちが見ている私なのかどうかがわからない。そこが私にとっては不気味で、どうしても「自撮り」に慣れることができない理由でもある。

 ときどき、私は夢想することがある。果たして、人間はいつの日にか、他人の視線で自分を見ることに成功するのだろうか。つまり、私が他人と対面しているときのように、スマートフォンの前面カメラの画面の中、あるいは、鏡に映っている私らしき人物は、私が右手を挙げると、右手を挙げてくれるだろうか。私が右手でカップを持ち上げると、ちゃんと右手でカップを持ち上げてくれるだろうか。おそらく、人間はそれを技術的に可能にするだろう。私が無知なだけで、既に、そんなことは可能なのかもしれない。もしそうならば、その画面の中の私は、いったい、誰なのだろうか。これまでと矛盾したことを言うが、画面の中、あるいは、鏡に映る私らしき人物は、私が右手を挙げたならば左手を挙げなければならない。そうでなければ、私はその私らしき人物を、私らしき人物だと認めることができないだろう。私が右手でカップを持ち上げたとき、画面の中の私らしき人物が、ちゃんと右手でカップを持ち上げることほど心霊的な現象はないのではなかろうか。はっきり言えば、その人物は、もはや、他人か幽霊である。

 

【どうにもならない私らしき人物を肯定すること】

 もう一度、フェイクポルノ動画に戻ろう。もし、私やあなたの「顔」がフェイクポルノ動画に使用され、それが、まだ、性的行為以前の相思相愛の恋人同士だった場合、それを、偶然、観てしまった私たちはどのような反応を示すだろうか。男性性の性的欲求と女性性のそれは若干違うはずだが、性的欲求に関してはどのような性自認の人物でも持ち合わせている。私はフェイクポルノ動画の危うさについては、先程、述べた。しかしながら、もし、画面の中の私らしき人物が、私が右手でカップを持ち上げたとき、ちゃんと右手でカップを持ち上げ始めたならば、そのとき、フェイクポルノ動画は、メタレベルのフェイクポルノ動画として、つまり、画面の中の私らしき人物は、もはや、他人として私たちの目に映ってはこないだろうか。そのとき、私たちは画面の中の私らしき人物に嫉妬するだろうか。現時点では断言できないが、私は近い将来、フェイクポルノ動画はメタレベルに移行し、私たちは画面の中の私らしき人物に嫉妬し始めるのではないかと拙い思考を巡らせている。

 つまり、逆から言えば、どれだけスマートフォンの「自撮り」が技術的に洗練されたとしても、私たちは画面の中に、私とは逆の手を挙げる不気味な私らしき人物を見続け、その違和に耐え続ける他ないだろう。そして、究極的には、私たちは私たちの目で「私」を観ることなどできないのだろうと思う。結局のところ、「私」が他人の中にしか存在しないのと同じように。私は、私とまったく同じ人物を求めないだろう。私は差異の連続を生きるだろう。

 要するに、象鼻ヶ岬の傍、峨嵋山の麓に並んでいる石仏の数は三十八なのだ。