【エッセー】ポーの詩集を日本語で読む中国人女性

伊勢佐木町の隣の通りにある若葉町という町に住んでいた頃、友人の中国人女性である海晴がマッサージ店の呼び込みの仕事をしていたから、私は深夜によく長者町の通りのガードレールに座ってポーの詩集を読んでいた。詩集を読むのに飽きると、手持ち無沙汰にしている海晴に冗談を飛ばしたり、メモ帳に街のスケッチのようなものを書いたりして夜明けまでの時間を費やしていた。深夜の長者町の通りは、言うまでもなく繁華街であり、人通りも絶えることなく、夜の街で生きる様々な職種の、様々な人種の人間たちが、時にはうつむき、時には叫び、時には笑いながら、街路を行き交うのだった。終電を逃したサラリーマン、仕事を終えた風俗嬢、仕事中だと思われるキャバクラ嬢、「おっぱい、おっぱい」と連呼するおっぱいパブの店員、そしてもちろん、マッサージ店の呼び込みをする中国人女性たち。それらの夜の風景は私にとって刺激に満ち、決して飽きるということがなかった。

当時、海晴の他にもう一人、マッサージの呼び込みをする顔馴染みの中国人女性がいた。名前を訊くことはついになかったが、白い肌と均整のとれた細い身体、そして何よりもその色っぽい顔から、私は出会う度にその中国人女性を飲みに誘っていた。その誘いが叶ったことは一度もなかったが、もしかすると、一度マッサージにでも行ってあげると一緒に飲みに行ってくれるのではないかという馬鹿みたいな考えだけは常に持ちあわせていた。だから飽くことなく、その中国人女性の持ち場の通りに出掛けては声をかけ、その中国人女性は私の腕を抱いてマッサージ店へと連れて行こうとする演技のような行為が毎晩続いたのだった。演技という言葉を使ったのは、当時、当然その中国人女性も私がマッサージ店へ行くことはないと信じているのを知っていたからだ。

ある深夜、ガードレールに座ってポーの詩集を読んでいたとき、私は詩集に飽きてメモ帳を取り出していた。そして、ペンでそこに生まれて初めて詩のようなものを書き殴っていて、それに没頭していたからか、海晴の声に気づかずにいた。いつまでたっても私が顔を上げないからか、珍しく海晴の方から私に近づいてきて、煙草を吸いながら、何をしているのかと尋ねてきた。私はもしかするとさっきまで冗談を言い合っていたもう一人の呼び込みの中国人女性のことを訊かれるのではないかと思い、顔を上げずにいた。そうすると海晴は何を書いているのかともう一度尋ねてきたから、私は危うく詩を書いていると言いそうになった。当時の私は詩を書いていると素直に言うのが恥ずかしくて、誤魔化しの返事をしたのだが、速攻で海晴にそのメモ帳を取られてしまった。海晴はそこに書き殴られている私の文章を読んでいるのか、あるいは、眺めているのか分からないような顔つきで、しげしげとメモ帳を捲っていた。それに飽きたのか、ぶっきらぼうに私にメモ帳を返し、今度はポーの詩集を私から奪い取った。そのポーの詩集の一番はじめの詩はあの有名な「大鴉」であり、またしても海晴はそれをしげしげと眺めていた。おそらく、読んでいたのだろうと思う。その証拠に、今度はそのポーの詩集をくれと言い始めた。私はアメリカ人が書いた詩を、日本人が日本語に訳し、その日本語の詩を中国人が読むという行為をとても面白く思ったし、特にポーの詩集に拘りも持っていなかったから、即答で返事をし、詩集を海晴に譲った。今でも時々、海晴はあのポーの詩集を読んだのだろうかとふと思う時がある。

その同じ日の深夜、私は海晴ではない方の中国人女性がいつも私を連れ込もうとする雑居ビルに忍び込み、一階のトイレで小便をし、その後でそのマッサージ店があるという五階に上ってみた。そこには、営業中の中国人相手の雑貨店と、何かピンク色っぽいカーテンが掛かっていてドアが開けっ放しの部屋の二つがあり、おそらくは後者が例のマッサージ店だろうと私は見当をつけて、中を少しだけ覗いてみた。幸いにして誰も出て来ず、私はそそくさとそこを立ち去り、エレベーターの降りるボタンを押した。すると中から、いらっしゃい、という女性の声がし、あの私がいつも飲みに誘っていた中国人女性が現れたのだった。中国人女性は私の顔を見ると、一瞬だけ顔が強ばったようになり、二人とも無言になったが、すぐに中国人女性の方が笑顔になり、入って入ってと私を誘うのだった。その中国人女性は下着姿だった。私は少しはにかんだ笑顔で手を振り、丁度やってきたエレベーターに素早く乗り込んだ。エレベーターを降りるとすぐに若葉町の自宅マンションに向かって歩き始め、その間、何度も何度もあの中国人女性の下着姿を思い浮かべた。そして、部屋に帰ると、パソコンの電源を入れ、ワードパッドを開き、すぐさま文章を書き始めた。そのとき、何を書いたのかはもう憶えてはいない。ただ、誰かに向かって何かを伝えるという衝動が自分の中に生まれてしまっていて、それをどうにか処理しなければおさまりがつかないのだった。その衝動は、あるいは、海晴にポーの詩集を譲ったことから発生したのかもしれない。または、あの中国人女性の強ばった顔と下着姿から発生したのかもしれない。それは当時の私には分からなかった。ただ、今振り返ると、そこには小説が生まれる契機とでもいうべきものが含まれていたと思う。当時の私はついにそれを言語化しえなかったが、今、それを懐かしく思いながら、こうして叙述してみる私がいるのである。当然だが、あの海晴ではない方の中国人女性を見たのは、あのマッサージ店で下着姿になっていた彼女を見たのが最後である。