【エッセー】躊躇と「介護入門」

 昔、風俗の店員をやっていた頃、姉妹店にのりこという源氏名の女がいた。多くの風俗店は新人の女の子が入るとすぐに辞めさせないために姉妹店の男性従業員をこっそり客として出向かせることがある。私はのりこが姉妹店に入店したときにすぐさまその店に本指名のサクラとして派遣された。風俗の店員をやっていると女の子の様々な情報が筒抜けだから、正直、私はその秋田から上京してきたのりこに会うのが面倒臭かった。それは特に憐憫などという感情ではない。単に芋臭い女の子の相手をするのが億劫だったのだ。田舎から上京してきたばかりの女の子は大概プレイが下手だ。そして、様々な事情から金目当ての女の子が多く、だいたいの女の子は金を渡せば本番行為を許容する。当時の私はそんな女の子たちにうんざりしていた。

  のりこの部屋に入るとすぐに私が姉妹店の従業員だということがバレた。のりこは私が店の前で呼び込みをしているのを見かけたことがあったそうだ。参ったなと思いながら、私は男性従業員の事情を正直にのりこに喋った。のりこはショートボブの黒髪を触りながら、うんうんとただ頷いていただけだった。プレイは何もしなかった。お互い煙草を吸いながら壁にもたれて無言で時間をやり過ごした。こういうときに一体何を話せばいいだろう?やがて時間を知らせるタイマーが鳴り私は立ち上がってサヨナラの挨拶をした。のりこは挨拶代わりだと思われる名刺を私に手渡してその場を後にした。帰り際、名刺を見ると、なぜあたしの体に触れなかったの?と書かれていた。そして、パソコン用だと思われるメアドが添えられていた。

 私は二ヶ月後にその店を辞めた。晴れて無職になったわけだが、特にやることもない日々が続いていた。当時、モブ・ノリオが「介護入門」という小説で芥川賞を獲り、その小説が本屋に売られていた。私は一通りその小説を読んだ後、何の脈絡もなく急に秋田という地名を思い出した。記憶というのはどういうわけかシナプスの気まぐれな結合により脈絡のないことを我々に思い出させる。当然、秋田という記号はのりこと繋がり、それは例のメアドへと連鎖した。そのメアドは当時流行っていたMSNチャットのメアドだった。私はのりこのメアドにチャットのリクエストを送り返事を待った。三日後くらいにふいにのりことチャットで繋がった。それは酒浸りになっていた深夜のことで、酔いのせいもあり、私は特別驚きもしなかった。

 チャットでは特に込み入った話はしなかった。のりこがいまだにあの店に勤めていること、常連客の本番強要が鬱陶しいことなど、ひたすら愚痴のようなことを聞いていたような気がする。朝方になってのりこは急に「寂しいから熱帯魚を飼いたい」と訳の分からないことを言い始めた。「熱帯魚を買ってほしい」などと。私は無職でほとんど金を持っていなかったから、それは無理だよと返事をした。その代わり、試しに「うちに来ないか?」と文字を打ってみた。宵越しの空気は人の感情を弄ぶ魔法だ。たった一度しか会ったことのないのりこが即座にそれを承諾し、朝の八時頃に私の部屋に来ると言い始めた。正直、私はのりこの顔を忘れていたが、女性が部屋に来ることに躊躇う必要もなくそれを承諾した。

 朝の八時ちょっと前に待ち合わせのコンビニ前で待っているとラフな恰好をしたのりこがまるでいつもの慣習ででもあるかのようにふっと現れた。私たちはろくに挨拶もせずにコンビニで朝ごはんと飲み物を買い、私の部屋へ向かった。部屋に入るとのりこはすぐにベッドに座り込んでおにぎりを食べ始めた。私はソファに座ってその様子を見ながら、「熱帯魚の話は本当?」と訊いてみた。のりこは特に返事もせず眠そうな顔で私の方をぼんやり見つめていた。熱帯魚の話なんてどうでもいいという風に。私はのりこが抱いてほしくてこの部屋に来たのを知っていた。そんなことは大人の男なら誰だって分かることだ。余程のりこを押し倒して事を始めようかとも思ったが、またしてもシナプスの気まぐれな結合が秋田という記号を私に思い出させた。そして、それは風俗嬢という記号へと繋がった。躊躇という空気はすぐに相手に伝わるものだ。特に男女の微妙な関係においてはそれは致命的にもなりえる。私が躊躇している間に、のりこは「介護入門」を読み始めていた。そして、もう帰るから本をくれと言い始めた。私は別にその本に愛着などなかったから即答でその本をのりこに譲った。

 帰り際、のりこが真剣な表情で私の目を見つめた。どうしてあれ以降、店に来てくれなかったの、と。私は返事に窮した。そして、今後もプライベートで会うことはできるか、とアホな質問をしてしまった。先述したように、のりこはその場で私に抱かれたいがために私の部屋に来たのだ。私はその女心を台無しにしてしまったのだ。のりこは「介護入門」を小脇に抱えてそそくさとエレベーターを降りて行った。今でも時々、のりこは熱帯魚を飼っているだろうかと思い出すこともある。そして、私の最大の懸案は、のりこが「介護入門」を本当の介護の本と間違えて持って帰ってしまったのではないかということだが、そんなことはどうでもいいことでただのポーズだったことも私は知っている。