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【論考】安保法案、そして革命、《宏大な共生感》へ

《宏大な共生感》という希望のジレンマ

  大江健三郎は1959年に刊行された小説、『われらの時代』の中で、《宏大な共生感》という言葉を多用している。それは、主人公の南靖男によってこのように述懐される

希望、それはわれわれ日本の若い青年にとって、抽象的な一つの言葉でしかありえない。おれがほんの子供だったころ、戦争がおこなわれていた。あの英雄的な戦いの時代に、若者は希望をもち、希望を眼や脣にみなぎらせていた。それは確かなことだ。ある若者は、戦いに勝ちぬくという希望を、ある若者は戦いがおわり静かな研究室へ陽やけして逞しい肩をうなだれておずおずと帰ってゆくことへの希望を。希望とは、死ぬか生きるかの荒あらしい戦いの場にいるものの言葉だ。そしておなじ時代の人間相互のあいだにうまれる友情、それもまた戦いの時代のものだ。今やおれたちのまわりには不信と疑惑、傲慢と侮蔑しかない。平和な時代、それは不信の時代、孤独な人間がたがいに侮蔑しあう時代だ。《宏大な共生感》という言葉をかれはフランスの中年の作家の書物からさがしだして覚えていたが、それも戦争のイメージ、暗い夜のむこうにとどろく荒あらしい海の襲来のようなイメージとつながるものなのだった。ああ、希望、友情、《宏大な共生感》、そういうものがおれのまわりには決して存在したことがない。おれは遅れて生れてきた、そして次の友情の時代、希望の時代のためには、あまりにも早く生れすぎたのだ。

 この文章は、おそらくは当時の、そして戦後から現代にいたるまでの時代精神を、ある意味では的確に表現している。ある西洋の批評家は「小説とはおおまかに括れば、人間が穴の中に入り込んでしまうか、あるいは、穴の中から脱出するかのどちらかだ」と書いていた。その言葉に照らしてみれば、大江健三郎の希望に対する認識は正しいように思われる。希望というものは穴の中に入り込んでしまった人間が、そこからの脱出を目論んで抱く感情だからだ。

 ところで、上記引用文は大江健三郎の方法論的なアイロニーである。南靖男は湿っぽい女陰的な日本からフランスへの脱出を目論むが、アルジェリア人との友情、共闘を選択したがゆえに、その脱出は失敗に終わる。そして、アルジェリア人との友情、共闘もまた、南靖男の弟、南滋の自殺という不運によって雲散霧消してしまう。南靖男は、自分が本当に女陰的な世界から脱出したかったのかを自問する。それは、一種の自己欺瞞ではなかったかと。この小説のプロット、及び、アイロニーの駆使は、根源的には南靖男が個人主義的な観念の持ち主であることを示している。つまり、多用される《宏大な共生感》を南靖男は夢想しているだけであり、本当には戦場へ赴くつもりなど毛頭ない。そして、その個人主義的な観念は、最後に述懐される南靖男の《唯一の行為》という寂しさで締め括られる。

おれたちは自殺が唯一の行為だと知っている、そしておれたちを自殺からとどめるものは何ひとつない。しかしおれたちは自殺のために跳びこむ勇気をふるいおこすことができない。そこでおれたちは生きてゆく、愛したり憎んだり性交したり政治運動をしたり、同性愛にふけったり殺したり、名誉をえたりする。そしてふと覚醒しては、自殺の機会が眼のまえにあり決断さえすれば充分なのだと気づく。しかしたいていは自殺する勇気をふるいおこせない、そこで偏在する自殺の機会に見張られながらおれたちは生きてゆくのだ、これがおれたちの時代だ。

 大江健三郎の『われらの時代』刊行から61年後の現代、日本の自殺者数は 3万人前後だと報道されている。90年代後半あたりから日本経済の凋落がはじまり、希望という言葉がにわかに濫用されるようになった。これは国家による国民への再分配が不十分、もしくは、不能に陥っている証左だが、現時点では今後この問題が解消されるのかは分からない。もちろん、自殺という行為には様々な個人的理由があるが、多くは将来に希望を見出せないことに端を発する、社会的、経済的な事由だと思われる。日本では閉塞感という息苦しさを挙げる識者も多い。村上龍の『希望の国エクソダス』、『半島を出よ』などの作品は、この閉塞感の打開を企図した典型的な小説だろう。

 しかしながら、現代のグローバル経済下では、国家を世界に開く、つまり、閉塞感を打開すればするほど、労働力は流動的になり、企業は安い労働力を求めて途上国へと進出する。国内においても企業は流動的な安い労働力を求めるようになり、派遣社員という、謂わば、自国民移民とでも形容できるような安い労働力が奨励され、進んで登用される。そして、派遣社員というのは企業にとって非常に都合の良い起用ができる労働力であり、企業に有益な労働力ならば長期間雇用できるし、不必要と判断すれば契約満了で切り捨てることもできる。このように、グローバル経済下では、閉塞感の打開が不安定労働者をさらに不安定に、貧困に陥らせる可能性を孕むというジレンマを生み出してしまう。そこでは、もはや、閉塞感の打開は希望には繋がらない。つまり、大江健三郎が『われらの時代』で思い描いた《宏大な共生感》を、グローバルな経済的下部構造が地で行ってしまっているわけだ。当然だが、この問題は世界中の思想家によって現在進行形で考えられている。すなわち、世界中を縦横無尽に動き回る資本の暴走を、如何に食い止めるのかという問題である。

 冷戦後の世界秩序再構築とアメリカ

 80年代後半に始まった東欧諸国の民主化と、91年のソヴィエト連邦崩壊によって終結した冷戦は、その後、世界秩序再構築の必要性を主要各国に迫ることとなった。冷戦構造のさなかで隠蔽されていた、領土紛争、民族紛争、宗教紛争、これら第一次世界大戦以前に西欧諸国が定めた問題が、主として中東諸国において露呈されることとなった。しかしながら、嘗ての力を失った西欧諸国に代わって、この問題を一手に引き受けたのは、冷戦に勝利し、唯一の超大国となったアメリカである。91年の湾岸戦争、2001年の同時多発テロに端を発した再度のイラク戦争など、アメリカは国際連合を無視した形で、中東問題に積極的に介入していくこととなる。そして、その介入は、ベトナム戦争と同じく泥沼化し、アメリカの思惑とは裏腹に、現代においてイスラム国(ISIS)やナイジェリアのボコ・ハラムなどのスンニ派イスラム原理主義テロ組織の勢力拡大に一役買うことになってしまった。これらのテロ組織との戦いは現在進行形であり、偶発的な自爆テロと有志連合国家による空爆の応酬が遂行されているが、今後の見通しはまったく立っていないように思われる。

 ドイツの思想家、作家であるエルンスト・ユンガーは、第一次、第二次世界大戦戦間期に書いた『労働者』という非常に難解な本の中に、世界共和国を連想させるような文章を記している。以下に引用しておく(ちなみに、ユンガーは『労働者』において、労働者=兵士を市民の上位に対置し、形態としての労働者=兵士による来たるべき総力戦について、難解ではあるが詳細に綴っている)。

最も好ましくない見通しの一つは、疑いもなく次の点にある。つまり権力の使用に伴う責任を自覚することなしに優越的な権力を行使する二流の強国が、古来の自然の大地に根差して生きる弱小諸民族を暴力的に抑圧する可能性がそれである。それだけにいっそう期待されることは、真の帝国建設の能力を有する強国の出現である。そのような帝国によってこそ、保護が保証され、世界法廷について語ることが可能となる。今日国際連盟が演じているものは、その惨めな茶番劇にすぎない。

 この文章は、第二次世界大戦における大日本帝国を予言しているようにも思えるし、ナチスドイツの第三帝国を予言しているようにも思える。しかし、私はこの文章をアメリカの出現を予期したものとして読んだ。それは、私がこの文章から世界共和国を連想したことにもよるだろうと思う。私が夢想する世界共和国は、上記引用した文章に見られるような、強大な帝国による世界支配から生まれ、しだいに全世界が国家を止揚し、市民社会化していくのだろうと愚考している。

 私は現在をアメリカによる世界支配の過程の一時期だと捉えている。これに異を唱える人たちが日本を含めた世界中にいることも分かっている。本音をいえば、この文章を書いている私自身もこれには猛然と反撥したい。しかしながら、未来の世界秩序、及び、世界共和国について思いを馳せるとき、この結論以外に至らないのが現状である。もちろん、その帝国、世界共和国に至るまでには、様々な抵抗勢力が多発するだろう。中国の経済的台頭とそれに伴う軍事力拡大やロシアのクリミア編入、諸々のテロ組織、これらによるアメリカへの挑戦は今後も続くと思われる。嘗て、冷戦を勝利した当時の強大な力を既に失ったアメリカは、今後、これらの挑戦にどう対処するだろうか。

 戦後レジームからの脱却、安保法案、戦争

 2015年現在、中国はフィリピンの再三にわたる抗議を無視し、南シナ海南沙諸島岩礁埋め立てを完了した。その施設を軍事利用するかもしれないとも報道されている。これに対して、アメリカと日本、オーストラリア、東南アジア諸国連合ASEAN)各国などが「深刻な懸念」を表明したが、中国は強硬姿勢を貫いた。更に、一部では、日本は中国と対立するフィリピンと、国民的議論もないままに同盟関係に入ろうとしているともいわれている。そして、アメリカのオバマ大統領は、戦略的にアジア太平洋地域を重要視する政策を打ち出した。しかしながら、財政的に疲弊しているアメリカは、アジア太平洋地域における安全保障の一部を同盟国に肩代わりさせようとしている。

 日本の内閣総理大臣である安倍晋三首相は「戦後レジーム」からの脱却を唱え、憲法改正を悲願としていると思われる。しかし、安倍首相のこの主張は矛盾を含んでいる。まず、「戦後レジーム」からの脱却を唱えるならば、アメリカとの同盟関係を破棄することから始めなければならないからだ。その後、憲法改正し(憲法9条の削除、改定に関わらず)、自国の軍隊を持つ必要があるだろう。日本の戦後を規定してきたのは、まぎれもなく、アメリカとの同盟関係、所謂、日米安保条約である。しかし、今現在、与党、及び、安倍首相が国会でやっていることは、この真逆である。

 先日、与党の自民公明は、安保法案、所謂、戦争法案を強行採決し、衆議院を通過させた。普通に考えれば、安保法案は参議院も通過するだろうと思われる。そして、2016年に予定されている総選挙も、おそらくは、自民公明が圧勝するのではないだろうか。その後に、安倍首相が引き続き内閣総理大臣を務めるのかどうかは分からないが、もし続投するならば、そのときに安倍首相は憲法改正に乗り出すだろうと思われる(憲法9条を削除、改定するのかは分からない)。しかしながら、上述したように、これは「戦後レジーム」からの脱却どころか、その真逆、「戦後レジーム」の強化である。言い換えれば、日米安保条約の強化であり、日本は益々アメリカに従属することになるだろう。安倍首相に憲法9条を削除する勇気があるのかどうかは分からない。しかし、もし、憲法9条を本当に削除してしまったならば、そのときこそ日本人はアメリカの戦争に加担、あるいは、日本軍による自前の戦争を、戦後70数年の平和の時代を経て体験することになるかもしれない。

デモ、パルチザン、そして革命

 現在、主に東京では様々な地域で、安保法案に反対するデモが行われているようだ。渋谷では高校生によるデモも行われたらしい。Twitterでは国会前で「だって戦争に行きたくないじゃん」と演説していた若者を、自民党議員が利己的個人主義と揶揄する事態も発生している。私が驚くのは、その自民党議員の発言はおろか、その発言に対する称賛である(これはリツイート数とお気に入り数で判断しているから、称賛ではなく記録的意味合いも含まれているかもしれない)。批評家の柄谷行人は、自らも反原発デモに参加し、「デモによって何かが変わることではなく、デモができる公共が生まれることに意義がある」というようなことを語っている。私自身も2012年に霞ヶ関で行われた反原発デモを実際に見たが、老若男女、多種多様な人たちがストリートに出て主張をすることは良いことだと思っている。特に、日常から逸脱したストリートに出て行くということが重要ではないだろうか。

 しかしながら、反原発闘争は政府与党の原発推進政策に伴う、鹿児島県川内原発再稼働を受けて敗北したと思われる。そして、私自身は、安保法案、及び、憲法改正憲法9条の削除を含む)についても悲観的な展望を抱いている。先述したが、おそらく、次回の総選挙でも自民公明は圧勝するだろう。それは、野党勢力の纏まりのなさを見れば歴然としている。ただし、日本が本当に戦争をする国になるのかどうか、本当に他国に武力を行使するのかどうかは分からない。しかし、このまま、自民公明による与党の政権が続くのならば、それは現実に起こってしまう可能性は否定できないのかもしれない。

 思想家の千坂恭二氏は、革命とは存在論的なもので、改革は制度的なものとして、革命と改革を明確に区別している。また、改革とは国家権力=資本の内部調整であり、革命は外部から電撃的におとずれるものとして、「革命は世の中を良い方向へ導くこととは関係がない。むしろ、革命は災難であり、不幸の原因かもしれない。それでも革命が必要なのは、現実とは無根拠であり、どんなものも変わり得ることを示すためだ」とTwitterで革命について度々呟かれている。千坂氏の革命論の展開はここでは省略させていただく。しかし、私はこの頃、日本という国には本当に革命が必要なのではないだろうかと、しばしば夢想することがある。何かしらの、根源的な変化が必要なのではないかと。今後、先述した私の悲観が的中したならば、デモは功を奏しえなかったということになる。そのとき、ストリートに飛び出した若者たちは、デモ隊から政治的な党派へ、つまり、パルチザンへと転身することがあるだろうか。カール・シュミットは『パルチザンの理論』において、革命時代における政治的な党派性を強調している。

その他の指標として、今日、激しい政治関与がわれわれに迫ってくる。この激しい政治的関与は、パルチザンを他の闘争者に対して特徴づけている。その動悸が私的な利得に向けられている普通の盗人や暴力犯罪人から、パルチザンが区別されなければならないがゆえに、パルチザンのすぐれて政治的な性格が保持されねばならない。この政治的な性格というパルチザン概念に特徴的な指標は、海戦法規の海賊――この概念には、私的な掠奪および利益へ向けられた海賊の悪行の、非政治的な性格が特徴的なのだが――の場合と(正確に逆の形において)同じ構造をもっている。海賊は、法学者たちがいうように享楽精神をもっている。パルチザンは、政治的戦線において闘う。まさに彼の行為の政治的性格は、パルチザン(Partisan)という言葉の本来の意味を再び有効にする。その言葉は、すなわち党派(Partei)から由来し、なんらかの闘争を行ない、戦争を遂行し、政治的に活動する党派あるいは集団への結びつきを示している。このような党派への結合は、革命時代においてとくにいちじるしくなる。

 今後、日本において、シュミットがいう政治的な党派、つまり、パルチザンが形成され、もしも闘争の時代がやってくるとするならば、そのとき日常から逸脱したストリートでは、大江健三郎が『われらの時代』で描いてみせた、友情の時代、希望の時代、《宏大な共生感》が、遅れてきた青年としてではなく、同時代の若者たちとして、彼らの間で共有されることになるのだろうか。それとも、反原発運動と同じく、何事もなかったかのように様々なことが忘れ去られ、《唯一の行為》、つまり、「偏在する自殺の機会に見張られながら」、湿っぽい女陰的な現実から脱出することもなく、《唯一の行為》からの逃走生活を生き続けることになるのだろうか。

柄谷:すると、歴史の終わりは日本のようになるだろうというコジェーヴの意見は、彼が言ったのと全く違った意味で妥当するかも知れない。よく日本は、西洋に対してもアジアに対しても何一つ提示すべき原理がないと言われる。しかし、一つだけはある。それは平和憲法です。ぼくは、日本がいまさら軍事力を行使しても無駄だし、決してうまく行かないと思う。だから、いかなるかたちでも戦争を放棄するということを言いつづけていけばいいのです。それは非現実的だという連中のほうがずっと非現実的だと思う。……われわれは、もう「終り」はないのだ、なぜなら世界最終戦争はもう終っているのだから、われわれは核戦争を経験したのだから、と言いつづけるべきなのです。何があろうと、そう断固として主張すべきです。この意味において、世界史の終りは日本にあるということができるかも知れない。これ以外に、日本が提示しうる普遍的原理はないと思います。これは日本のものであり、あるいは岡倉天心の言葉でいえば「東洋の理想」であると同時に、西洋のものでもあるのだから。――柄谷行人岩井克人『終りなき世界』より

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