【映画】イヌミチ

はじめに

 2014年3月に公開された万田邦敏監督の映画「イヌミチ」は、セックスシーンのないロマンポルノという謳い文句のとおり、イヌと飼い主という主従関係を、サディストとマゾヒストの関係性に置き換えた、観念的なセックスをテーマとした映画である。ただ、「セックスを介在しない男女の肉体関係は、イヌと飼い主という関係性だけかもしれない」という思索には、やや、疑問がある。ここで言われている「肉体関係」が、肌と肌の「ふれあい」程度の肉体関係であるならそれは理解できるが、官能的な男女の「肉体関係」は、やはり、日常生活においては隠されている、あの陰部と陰部の密着以外にはありえないのではないだろうか。それでも、この映画は、官能性の表現という意味では成功している。もちろん、観念的な意味として。

あらすじ

 日々、編集者として働く、永山由里恵演じる響子は、他の動物が持つことのない、人間特有の脳機能、主体的な選択という行為に、疲れきっている。そんな響子は、ある日、歩道橋上に鎖で繋がれた柴犬を目撃する。それは、今後の展開において、響子が演じることになるイヌの前触れだが、このシーンは、ある意味、この映画におけるキーである。恋人との同居生活にも飽いている響子は、不意に故障した携帯電話を機種変更しようと、auショップを訪れる。店内に数々と展示してある携帯電話と、クレーマーの女性に責め立てられて、まるでイヌのように諂う、矢野昌幸演じる西森という男性を見て、響子は機種変更する携帯電話を西森に選択させる。ここから、響子のイヌへの願望、あらゆる主体的な選択の放棄が始まる。

 響子は西森にイヌになる催眠術をかけられるが、それは、人間を放棄してイヌになる演技だ。西森は、はじめのうち、響子が本気でイヌの演技を続けることを信じていない。しかし、仕事から帰宅しても響子が自分の家に居続けて、イヌの演技を続けていることから、次第に、西森も飼い主としての演技に没入していく。先述したが、西森はauショップで働く会社のイヌであった。諂うことを恥とも思っておらず、自分をからかう上司に平気で土下座までしてみせるイヌだ。そんな西森が、イヌとしての響子から選択権を委ねられ、飼い主役を演じさせられる。このイヌと飼い主という関係は、マゾヒストとサディストの関係性の換喩としてみることもできる。選択権を委ねられた飼い主は、イヌを悦ばせるために、努力しなければならない。それは、サディストがマゾヒストを悦ばせるための努力と同義である。ここで、主従関係は逆転する。つまり、イヌ=マゾヒストを悦ばせるために、必死に努力する飼い主=サディストは、その努力性ゆえに、マゾヒスティックにならざるをえない。西森が、イヌを演じる響子のために、餌の容器や首輪を購入して、笑うシーンがある。この笑いは、サディストの笑いであると同時に、マゾヒスティックな自嘲でもあるだろう。

 メルクマールとしての首輪をはめられた時点から、響子はイヌになり、西森は飼い主になった。この遊戯的な主従関係は、三日間続く。響子はイヌを演じ、西森は飼い主を演じる。しかしながら、四日目に、この関係性が崩れる。飼い主役を演じていた西森が、その役割に疲れたのだ。言い換えれば、サディストとしてマゾヒストに尽力していた人間が、その主従関係の転倒性に気づき、マゾヒストの気楽さと悦びに嫉妬し始めたといっても良い。実際、西森はイヌを演じている響子に向かって「ワン」と発声し、イヌを演じてみせる。それを見た響子は、一瞬にして、イヌの演技から醒めてしまう。結局、イヌにもなりきれなかった響子は、首輪を自分で外そうとするが、自分で外すことができずに、西森にそれを外してもらう。メルクマールを外したことで、イヌと飼い主という遊戯は終焉を迎える。

 西森との遊戯中に、響子がトイレで嘔吐するシーンが挿入されている。そのシーンは、実は、響子が恋人との間で身籠っていたことの伏線だが、響子は流産してしまう。それは、路上で響子が股間を血に染めるシーンで示唆されるが、この流産によって、既に飽いていた恋人との関係性にも終止符が打たれる。しかし、響子の流産を示唆するシーンが印象的にみえるのは、その後に、横断歩道の信号が赤から青へと変わったにも関わらず、響子が歩き出さず、その場に立ち尽くして、青信号を背景に涙を流すシーンが挿入されているからだろう。イヌになりきれなかった響子は、母親になること、つまり、もう一度人間としてやり直すこともできなかったのだ。

 その後、響子は編集者の仕事を辞め、再び、西森のもとへ赴く。しかし、響子はもう西森のイヌになる気がまったくない。西森の家に残っていた、イヌの餌容器と首輪をゴミ箱に放り投げ、「もう飼い主はいらない」と西森に言い捨てて、その場を去る。ラストシーンで、再度、冒頭シーンの歩道橋が映し出される。しかし、そこにはもう鎖で繋がれた柴犬はいない。その後の響子がとった行動は謎のまま、そこで映画は終わる。

ラストシーンの謎と死のエロチシズム

 バタイユは『エロチシズム』の冒頭で、次のように人間のエロチシズムを規定している。

ともかく、エロチシズムが人間の性活動であるとすれば、動物のそれとちがった範囲においてである。人間の性活動はかならずしもエロチックではない。人間の性活動は、それが基本的なものでもなく、単に動物的でもないときに、はじめてエロチックといえる。

 この言葉に照らしてみれば、映画「イヌミチ」は十二分にエロチックだといえる。セックスシーン、つまり、ポルノ的な裸体を見せることなく、観念的なセックスによってロマンポルノ足りえているのではないだろか。そして、動物的ではなく、人間的であるがゆえに、逆説的に、動物的な遊戯をとおして、人間的なエロチシズムを獲得することに成功してもいる。バタイユがいうように、エロチシズムには恥という要素も不可欠である。端的に、人間がイヌを演じることは恥である。残念ながら、この映画では、恥という概念は想定されていないように思えたが、人間には根源的に、あらゆる人間的な要素を放棄して、動物的な自分を他人に曝したいという欲求がある。しかし、それは、宗教や道徳、法によって禁止されている。

エロチシズムについての内的体験はその体験者に、禁止の基となる死の不安に対しても、禁止に背かせようとする欲望に対しても、同じように強烈な感受性を要求する。――バタイユ『エロチシズム』より

 死の不安というのは、人間的であり、それはエロチックですらある。おそらく、死を意識したとき、人間はもっとも性的な衝動に駆られる。バタイユがいうように、それを内的体験として体験した人間は、禁止に背き、違反するだろう。死の不安は、その欲望を助長するのだ。イヌにもなりきれず、再度、人間に戻ることもなかった響子は、おそらく、自殺しただろう。それは、選択の放棄を題材とした、この映画における、逆説的な、最後の選択である。動物的であることなく、人間的であるがゆえに、動物的な遊戯に耽ってみせるという、真に人間的で観念的なセックスは、はじめから身体性を喪失している。そこには、あらかじめ、死の予感が漂っているのだ。ラストシーンに残された、その後の響子の謎、それは、あらかじめ、漂っていた死、それではないだろうか。