【エッセー】真夜中のプールと青春と自由であること
村上龍の処女作、『限りなく透明に近いブルー』の中に、主人公である僕とリリーがラリった状態で、雷雨の中のトマト畑を這いつくばるシーンがある。二人はラリっているため、トマトを爆弾だと言い張ったり、トマト畑を海と錯覚したりする。このシーンは、ドラッグによる錯乱を表現しているが、錯乱状態ゆえに、主人公の僕はプールに飛び込むことができない。リリーの発した、「あなた、死んでしまうわよ」という言葉が示唆するように、この小説は、ある一線を越えることができなかったがゆえに、小説として成立することができるのだ。後に、村上龍自身が語っているように、小説とは、ぎりぎりのある一線を越えることができなかった人間が書くのだろう。本物のジャンキーは小説を書かない。
続きを読む【映画】イヌミチ
はじめに
2014年3月に公開された万田邦敏監督の映画「イヌミチ」は、セックスシーンのないロマンポルノという謳い文句のとおり、イヌと飼い主という主従関係を、サディストとマゾヒストの関係性に置き換えた、観念的なセックスをテーマとした映画である。ただ、「セックスを介在しない男女の肉体関係は、イヌと飼い主という関係性だけかもしれない」という思索には、やや、疑問がある。ここで言われている「肉体関係」が、肌と肌の「ふれあい」程度の肉体関係であるならそれは理解できるが、官能的な男女の「肉体関係」は、やはり、日常生活においては隠されている、あの陰部と陰部の密着以外にはありえないのではないだろうか。それでも、この映画は、官能性の表現という意味では成功している。もちろん、観念的な意味として。
続きを読む【即興詩】水平線のあっち側
【映画】共謀者
はじめに
黒幕がごく自然な登場人物を演じながらも、最後にその正体を露わにして、それまでの過程を覆すという手法は、名作「ユージュアル・サスペクツ」を持ち出すまでもなく、サスペンス映画ではよくあることだ。さらに、アウトローな犯罪者が義理と人情に弱く、自分自身が社会の屑であることを自覚しながらも、最低限、ここを越えてはならないというルールを自分の中に定めているというのも、レイモンド・チャンドラーの探偵小説群を持ち出すまでもなく、古典的なアウトロー像だろう。2013年6月に公開されたキム・ホンソン監督による、実際の臓器密売をもとに製作された本作「共謀者」には、救いというものがない。古典的なサスペンス映画の手法をとりながらも、犯罪者であるアウトローたちの情けと義理に絡んだ善意は、徹底的に裏切られ、黒幕は最後まで胡座をかいたままだ。サスペンス映画における黒幕は、謂わば、神の視点を擁している。おそらく、本作における神は、悪魔と言い換えても過言ではない。権力と金に憑依された悪魔は、いつの時代も、私たちの知らない闇社会で高笑いし続けるものだ。心を持ってしまったアウトローな犯罪者たちは、その闇社会では、裏切られ、抹殺される他ない。それがこの世界の虚しい現実なのだろう。映画「共謀者」は、その真実を痛切に突きつけてくる。
続きを読む【エッセー】人生の黄昏において
人生の黄昏を知った人間は、名残惜しいような諦念と、覚悟の間で揺れ動く。生への名残惜しさとは、彼が人生において何を行為したか、何を獲得したか、つまり、彼の記憶に残存している何に未練があるかではなく、彼が何を行為できなかったか、何を獲得できなかったかという、ありえたかもしれない違う人生、可能性への未練だろう。しかしながら、結局、彼はあらゆる事柄を諦め、この人生を生きるしかなかった偶然性を受け入れて、覚悟を決める。言うまでもなく、それは、死の覚悟だ。不思議なのは、人生を諦念し、覚悟を決めると、死は、死の側から誘惑してくることだ。彼は、自身の死が確実に前方で待ち構えている事実を受け入れると、今度は逆に、その死を期待するようになる。つまり、死とは何か、死ぬとどのような現象が自分の身に起こるのか、ということを早く知りたいと思い始める。その深淵を早く覗き見たいと、強く願う心境に変化するのだ。それが、死の誘惑である。
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