【エッセー】トルーマン・カポーティ「無頭の鷹」を読んで

 トルーマン・カポーティーといえば『冷血』や『ティファニーで朝食を』などの小説が有名だろうか。もしくは、アラバマを舞台にほのぼのとした日常を綴った小説群を好む読者も多いかもしれない。しかし、私は彼のデビュー作である短編小説「ミリアム」を始めとする、都会に生きる人間の微かな狂気を切り取ったような短編小説群を好んでカポーティーを読んできた。少し大袈裟な言葉でいえば、リアリズムとシュールレアリスムの中間にあたるような、カポーティー独特の静謐な文体で書かれた都会的な短編小説たち。その中でも、私が青年時代から飽くことなく読み続けてきたのが「無頭の鷹」である。この短編小説を何度読んだかはもう思い出せないが、もしかすると、この小説はすべて夢の中の話なのかもしれない、という私の疑念はいまだ解かれていない。

 大まかなあらすじとしては、ニューヨークのとある画廊に勤務するヴィンセントという男が、ある日突然ドアを開けて自分の絵画を買って欲しいと訪ねて来たD・Jというまるでいつの時代を生きているのか分からないような、髪の短い風変わりな少女と出会う。そのいささか滑稽な容姿に驚きながらも、ヴィンセントは彼女が描いた絵画に魅了される。絵画に魅了されると同時に、作家であるD・J自体にも興味を抱くことになる。そして、数日間、ヴィンセントは自分の部屋にD・Jを住まわせて世話をするが、次第に彼女のクレイジーさに疲れ果て、最後には部屋に飾っていたD・Jの絵画を鋏でめった切りにし、それを彼女のスーツケースに二十ドルと一緒に入れ、D・Jを部屋から追い出してしまう。それでも、ラストシーンでは雷雨の下、二人が並んで立ち尽くすシーンでこの小説は終わる。

 静かな文体で綴られたこの短編小説は、簡単にいえば、一人の男の胸中に潜む狂気の話である。まず、ヴィンセントが魅せられたD・Jの絵画。そこには修道士姿で首のない女性がトランクに腰掛けている様が描かれている。頭は横に転がっており、髪が非常に長いものの顔はD・J本人だ。それを包み込むように、これまた首のない鷹がまるで夕闇のように背景を覆っている。ヴィンセントはこの絵画を観て、なぜこの少女は自分のことを知っているのだろうと作家であるD・J自体に興味を持つ。D・Jは絵画を観せると、小切手も受け取らずに画廊を出て行ってしまう。そして、ある日、ヴィンセントは通りで無表情なD・Jを見つけ出す。ヴィンセントはD・Jと暮らしを共にするにつれて、彼女が狂っていることに気づくが、その言葉は最後まで口にされることはない。D・Jが狂っていることは文中で度々彼女が口にする「デストロネッリさん」という固有名で察しがつくはずだ。なにせ、彼女が出会う男性はすべて「デストロネッリさん」なのだから。

 ヴィンセントはD・Jの中に狂気を見るが、それは自分の姿でもある。人間の狂気は、それと同じ狂気を秘めた他人の中に見い出す他ない。謂わば、D・Jとはヴィンセントの鏡なのだ。そして、D・Jが度々口にする「デストロネッリさん」という固有名は、彼女が描いた絵画「無頭の鷹」の隠喩である。D・Jもまた鏡を探していたのだ。敢えていえば、この二人は出会うべくして出会った双方を反射する鏡と考えていい。だからこそ、二人は二人とも「無頭の鷹」に追われる。D・Jは言う、「あの人、わたしを殺すわ、きっと」D・Jが脅えている「あの人」はもちろん「デストロネッリさん」であり、彼女自身が描いた「無頭の鷹」である。そして、破滅は訪れる。ヴィンセントはついに禁句を口にしてしまうのだ。「君は狂っているのか?」双方が鏡である限り、それは自身に向けた言葉となる。しかし、二人は離れられない。なぜなら、二人は限りなく同一人物に近い存在なのだから。

やがて、彼女がゆっくりとした足どりで、街灯の下に近づいてきて彼の横に立つ。空は、雷で割れた鏡のように見える。雨がふたりのあいだに、粉々に砕けたガラスのカーテンのように落ちて来たからだ。