【書評】トルーマン・カポーティ/無頭の鷹――雨乞いの神の子たち

 雨は降らないかな?

 ニューヨークの街角に店を出している花屋の屋台に群がる女の子たち、彼女らが空を仰いで雨を乞う場面が象徴しているように、トルーマン・カポーティの短編小説「無頭の鷹」は、都会を灰色に染める雨を巡る小説といっても過言ではない。雨は通りを行き交う人びとに傘を開かせ、俯瞰的に人びとから顔を剥奪する。それは固有名の消去といっても良いだろう。名前なんて勝手につけられるでしょ、とD・Jはヴィンセントに向かっていう。実際、ヴィンセントとD・Jは互いに名前を知らないまま、数日間をヴィンセントのアパートで過ごす。やがて、ヴィンセントはクレイジーなD・Jを部屋から追い出すことになるが、D・Jのトランクをドアの向こうに運び出す場面で、男の子が執拗に「おじさん、何をしているの?」と繰り返す。この台詞は、二人が同一人物であることの黙示として読むことも可能だ。二人が同一人物であることを鑑みると、二人の関係にとって名前は必要ない。そして、二人を同一人物たらしめているのは、雨である。この小説において、雨は相互を映し出す鏡のカーテンの暗喩として機能している。つまり、二人は相手の姿を見ながら、実のところ、鏡に映った自分の姿を見ているにすぎない。

 終わりから始まるこの小説は、ヴィンセントが勤務先の画廊から外に出て、まるで海の中を歩いているような虚ろな風景の中に、女の子の姿を探す冒頭から、既に雨の予感に満ちている。しかし、それは予感であり、雨は降らない。なぜ雨は降っていないのだろう。それは最後の場面で示されているように、二人が既に同一人物ではなく、ヴィンセントと風変わりな女の子という二人の人物、つまり、他者に変わってしまっているからだ。

やがて、彼女がゆっくりとした足どりで、街灯の下に近づいてきて彼の横に立つ。空は、雷で割れた鏡のように見える。雨がふたりのあいだに、粉々に砕けたガラスのカーテンのように落ちて来たからだ。

 割れた鏡はもはや自分を映さない。透けたガラスのカーテンの向こうに、二人は他者としての互いの姿を見ている。最後の場面で雷鳴が轟いたとき、雨は鏡のカーテンの暗喩としての機能を失ってしまう。そして、その雨の場面にも、花屋に群がる女の子たちが挿入されている。この小説の転機に二度ほど現れる女の子たちを、雨乞いの神の子たちとみなすこともできるかもしれない(あるいは、天女たちと呼ぶことも)。

 やがて、緑色のレインコートを着た女の子の姿を見つけたヴィンセントは、まるで影のように女の子を引きずりながら、街路を歩いていく。そして、舗道に女の子を置き去りにしたまま、アパートのドアを閉め、羽目板の覗き穴から外を見る。このとき、ヴィンセントがドアに鍵をかけたのかどうかは分からない。そこから、この小説は始まる。

 ヴィンセントの勤める画廊に、自分の描いた絵を買ってほしいと訪ねてきた少女は、その奇異な絵によって、たちまちヴィンセントを虜にする。首のない修道士のような服を着た女性がトランクに寄りかかり、青い蝋燭とミニチュアの黄金の鳥籠を左右の手に持ち、子猫の戯れを誘う長い髪を持った少女の頭部が転がっている奇妙な絵画。そして、その背景全体を覆うように翼を広げている無頭の鷹。ヴィンセントはその絵画の中に自身の狂気を見いだすと共に、自分のことを知っているこの画家は誰だろうと、少女自身にも興味を抱き、個人的にその絵画を購入しようとする。少女に小切手を渡すため、名前と住所の記入を求めるが、少女は名前をD・J、住所をY・W・C・Aと書いて、画廊から姿を消す。

 この画廊の場面で既に、その後何度もD・Jが口にする「デストロネッリさん」という架空の名前が使われている。D・Jが度々呟く「デストロネッリさん」、もしくは、「あの人」とは、D・J自身が描いた絵画「無頭の鷹」の暗喩として読むことができる。それは、ヴィンセントの抱く狂気、罪とも符号する。生まれつき殺される運命にある男、とヴィンセントは自らを定める。

 あるとき、ヴィンセントは出口のない悪夢をみる。老いた醜い自分の分身が背中に憑いて離れない。パーティーに集う周囲の人びとの背中にも、それぞれの分身が張り憑いている。それは、邪悪な身体の内部の腐敗の表出であるが、同様に背中に分身を憑けたD・Jに触れたとき、ヴィンセントの分身は消え、身体が上昇していく。そのとき、ヴィンセントの上を旋回している頭のない鷹が降下してくる。ヴィンセントは逃げられないと悟る。

 この悪夢が象徴しているヴィンセントの怯えと、D・Jの独白「あの人、きっとわたしを殺すわ」という言葉は同義である。なぜなら、二人は同一人物であり、この小説におけるD・Jの役割は、絵画「無頭の鷹」を見せることによって、ヴィンセントに罪を背負わせることにあるからだ。その罪が如実に表現されている場面がある。教会の鐘が鳴らない静かな日曜日の朝、雨の音を聞きながらヴィンセントは回想する。

まず、いとこのルシール。哀れな、美しい、愚かなルシール。一日じゅう坐ってリネンの布切れに絹の花の刺繍をしている。それからアレン・T・ベイカー――、ハヴァナでいっしょに過ごした冬、いっしょに住んだ家、バラ色の石で出来たくずれかけた部屋。哀れなアレン、彼はそんな生活が永遠に続くと思ったのだ。ゴードンもそうだ。縮れた黄色い髪の毛をした、頭のなかが古いエリザベス朝時代のバラードでいっぱいのゴードン。彼がピストル自殺したというのは本当だろうか?それからコニー・シルヴァー、女優になりたがっていた耳の聞こえない女の子――、彼女はその後、どうなっただろう?あるいは、ヘレンは、ルイーズは、ローラは?「愛した人間はひとりしかいなかったよ」彼はいった。自分でも、その言葉は真実味があるように聞えた。「たったひとり、その彼女も死んだ」

 この小説の著者であるトルーマン・カポーティ自身が同性愛者だったことを考慮すると、ここでヴィンセントがいう「たったひとり愛した人間」とは、おそらく、ピストル自殺をしたゴードンという男性だと思われる。「彼女」という三人称女性代名詞が使われているのは、カポーティの巧みな仕掛けだが、それは聞き手がD・Jであるという設定と、方法論的なものだろう。普遍的に女性性をも愛しながら、しかし、ヴィンセントは自らの同性愛的傾向、つまり、罪の意識に苛まれている。この小説は、ある観点からすれば、キリスト教的な罪の意識に規定された、宗教的な小説といっても良い。それが最も示されるのは、アパートの管理人の妻である、ブレナン夫人との会話の場面である。

「ブレナンさん」――息をするのも、口をきくのもつらい。言葉が痛む喉を刺激して、雷のように大きく響く。「ちょっと身体の調子がよくないんです。よかったら失礼して……」そして彼は彼女の脇を通り抜けようとした。

「まあ、それはお気の毒に。プトマイン、きっとプトマインによる中毒ですね。身体には充分気をつけたほうがいいですよ。そりゃ、ユダヤ人のせいですよ。なにしろデリカテッセンはみんな連中がやっていますからね。いえ、私は、ユダヤ人の食べるものなんか食べませんよ」彼女は入口に立ちはだかって、道をふさぐと、さとすように指を出しながらいった。「ウォーターズさん、まともな暮しをして下さらないと困りますよ」

 これはD・Jがガスの検針員に向かって鋏を持ち大声で叫んだ後の会話だが、「プトマイン」という言葉はドイツ語であり、それによってブレナン夫人がドイツ系アメリカ人だということが判明する。更に、ユダヤ人を憎んでいることから、夫人がプロテスタント(反抗者)であることも推測できる。そして、おそらくは、D・Jが叫んだであろう言葉、「デストロネッリさん」という架空の名前が、イタリア人の名前であることが、次のブレナン夫人の言葉で示される。

「……あなたにだって想像できるでしょ、彼女が鋏を持ってそこに立って、大声で叫んだんですよ。クーパーさんをなんとかいうイタリア人の名前で叫んだの。クーパーさんを見れば、イタリア人じゃないってことはすぐにもわかるのに。ともかく、ウォーターズさん、こんな騒ぎを起されたらアパートの評判が……」 

……「デストロネッリさん」彼はいった。「失礼、ブレナンさん、間違えてすみません」

 後者の引用部分では、著者のカポーティが意図的に、ブレナン夫人を「デストロネッリさん」と誤ってヴィンセントに呼ばせていることは明々白々だが、「デストロネッリさん」という架空の名前がイタリア人であることを考慮に入れ、ヴィンセントがプロテスタント(反抗者)であるブレナン夫人を「デストロネッリさん」と呼んだことの意味を考えるならば、おそらく、ヴィンセントに誤った呼称をさせることで、プロテスタントであるブレナン夫人をイタリア人的なカトリックへと読者を意図的な誤謬に導き、「デストロネッリさん」という架空の人物もまたカトリックであることがここで顕在化する。そして、それはヴィンセントがプロテスタント(反抗者)であることを結果的に証している。

 D・Jの描いた絵画「無頭の鷹」は、「デストロネッリさん」の暗喩であると先に述べた。そうであるならば、「無頭の鷹」はカトリックの暗喩でもある。つまり、ヴィンセントの罪の意識とD・Jの死への怯え、これらは同義だが、それはプロテスタント(反抗者)であるヴィンセントが同性愛者だということに由来する。それ故に、二人は「無頭の鷹」、つまり、「デストロネッリさん」というカトリシズムに追われている。これは、ルターの宗教改革以前のカトリックに抗議するプロテスタント(反抗者)という構図に重なるが、しかし、D・Jが描いた絵画「無頭の鷹」では、修道士の首がなく、頭部は地面に転がっている。それは、もっと大局的な視点からすると、カポーティによるキリスト教批判ともいえるのではないだろうか。なぜなら、ヴィンセントは他者としてのD・J、つまり、女性としてのD・Jを舗道に置き去りにしたまま、アパートのドアを閉めたのだから。しかしながら、ヴィンセントがアパートの鍵をかけたのかどうかは読者には明かされていない。そこがこの小説に残された最大の謎なのかもしれない。

 ところで、ヴィンセントの部屋には、火が灯った青い蝋燭が燭台に立てられている。それを見ながらD・Jがこう述懐する場面がある。

「グラス・ヒルを思い出すわ。あのろうそくの光」彼女は微笑んだ。「私のお祖母ちゃん、グラス・ヒルに住んでいたの。ときどきだったけどとても楽しかった。お祖母ちゃんがいつもよくいっていたことわかる?『ろうそくは魔法の杖。ひとつともせば世の中はお話の本になる』」

 おそらく、トルーマン・カポーティの短編小説「無頭の鷹」は、すべてがヴィンセントの夢の中の話である。つまり、それはカポーティの夢でもあるのだろう。

父(神)は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。――マタイによる福音書5章45節より