【エッセイ】中年男の淋しさ、エイジズムについて

 いつ頃からだろうか。もう随分、長い間、中年男の淋しさということが、繰り返しあらゆる場所で語られている。もちろん、中年男といっても、三十代から六十代くらいの初老まで幅広いのではあるが、ここでは、定年退職した初老に近い六十代に焦点を当ててみようと思う。つまり、団塊世代よりは少し年下で、それでも、バブル経済謳歌し、その後のバブル経済崩壊から現代までの日本経済停滞を骨身に経験している世代だ。そんな六十代中年男の淋しさについて、少々、軽く考えてみたい(以下、六十代という呼称は省く)。

 考えてみれば、そんな中年男たちは90年代には既に中年男だったわけで、今から二十年前、渋谷という街で公然と行われていた、女子高校生相手の援助交際という名の売春に汗水垂らしていた中年男もいるのだろうと思う。私自身は、当時、二十歳と少しという年齢もあって、はっきり言えば、そんな中年男たちを嫌悪し、敵対視していた。当然だが、歳の近い女の子たちが中年男に万札でほいほい買われているのを見るのは辛いものがある。それこそ、淋しさと表現してもいいような感覚だった。実際に淋しかったのは、女子高校生も含めて誰だったのかはよくわからないけれど。

 そんな私も二十年後にはきっちりと歳を取り、今年、43歳になった。立派な中年男であり、また、二十年前の中年男たちと同じ年齢になったわけだ。女子高校生相手の援助交際こそしていないものの、やはり、男女問わず、若さと老いということを考えざるをえない年齢である。

 最近、同年代の友人のひとりが二十歳年下の女性と結婚をした。それを聞いたとき、世の中年男のサガなのだろう、私は率直に羨ましいという感情を抱いた。しかしながら、一方で、もし私が二十歳も年下の女性と縁を結んだところを想像してみると、やはり、何か不格好な面持ちになるだろうことも確かだと気づいた。いったい、二十歳も年下の女性と何を分かち合えるのだろうかと。

 はっきり言えば、若さ、特に、女性の若さが武器になる社会は不幸な社会である。私はこの考えだけは今後も持ち続けていくつもりだ。それでも、敢えて、こうも主張したい。独身の異性愛者である中年男が、独身の異性愛者である若い女性を好きになっていったい何が悪いのかと。もちろん、中年男が相手にされるかどうかは甚だ疑わしい。

 世の趨勢は中年男に厳しい。マジョリティである中年男が、徐々に、マイノリティになっていくようだ。しかし、この構図はいつでも簡単に変化しうる。言い換えれば、壁と卵は容易に反転するのだ。世論というのは所詮そんなものだ。

 私は卵の側に立つつもりだ。ここまで読んでくれた方には、私の立ち位置はわかるだろう。とても窮屈で、やるせなく、そして、本当に淋しい立場なのだけれど。