【映画】パリ、テキサス

あらすじ

 冒頭、赤いキャップに髭面の男が砂漠を歩いているシーンからこの映画は始まる。男の名前はトラヴィス。四年前には美しい妻ジェーンと息子ハンターを持つ父親だった。しかし、トラヴィスは妻と息子を捨て、失踪してしまう。妻のジェーンはハンターを育てることができないと判断し、トラヴィスの弟ウォルトとその妻アンナ(フランス人)にハンターを預けた。砂漠を歩き続けたトラヴィスはガソリンスタンドで水を飲んで倒れこむ。名前はおろか、身分を証明する物を一切持っていなかったが、たった一枚、弟ウォルトの名刺を持っていたことから、ウォルトに連絡がつく。ウォルトは自宅のあるロサンゼルスにトラヴィスを連れて行こうとするが、トラヴィスはまるで白痴のように何も話さない。そんなトラヴィスだったが、一枚の砂漠の写真をウォルトに見せ、「パリ」と呟く。自分の父と母がそこで結ばれたのだと。ここでトラヴィスがいう「パリ」はフランスのそれではなく、テキサス州のパリだった。

 飛行機を嫌がるトラヴィスを見かねた弟ウォルトは、トラヴィスを車に乗せて一路ロサンゼルスを目指す。徐々に心を打ち明けていくトラヴィスと、窓の外を流れていくアメリカの美しくもどこか淋しげな風景が重なり合い、ロード・ムービーとして、このシーンはとても印象的だ。やがて、二人はウォルトの妻アンナとトラヴィスの息子ハンターの待つロサンゼルスの家に到着する。四年の間、ウォルト夫妻に育てられたハンターは、はじめのうちトラヴィスに心を開かない。それでも、次第にゆっくりとハンターは父親トラヴィスと心を通わせるようになる。この父子の心のふれあいとして印象的なシーンがある。ある日、学校から帰宅するハンターをトラヴィスが徒歩で迎えに行く。道路を間に挟んだ舗道を、父子は家へと黙々歩いて行く。途中、トラヴィス側の舗道にトラックが駐車してあり、ハンターは一瞬間、父親を見失う。しかし、次の瞬間、ハンターはトラックの物陰から出てきた、後ろ向きになって歩く父親の姿を見て子供らしい笑顔を見せる。おそらく、この父子の情愛を最も雄弁に語っているのがこのシーンだろう。やがて、父子の絆を取り戻した二人は、ハンターを我が子のように育てたウォルトとアンナを家に置き去り、元妻ジェーンを探す旅に出る。

 ヒューストンの銀行から元妻ジェーンがハンターに宛てて毎月仕送りをしている事実を知ったトラヴィスは、車にハンターを乗せてその銀行へ向かう。そして、ジェーンらしき女が運転する赤い車を見つけた二人は、ジェーンを追って高速道路をひた走る。とある建物に辿り着いた二人は、ハンターを車に残し、トラヴィスがひとりでその建物に入っていく。そこはマジックミラー越しに電話で男女が会話をする、いかがわしい風俗店のような場所だった。男性からは女性が見えるが、女性は鏡に映る自分の姿しか見えない。トラヴィスは店内でジェーンらしき女性を見つけて指名する。その日は、マジックミラーの向こうにジェーンを残したまま、トラヴィスは無言でその場を後にする。おそらく、ここでトラヴィスの決意は固まっているはずだ。翌日、トラヴィスは息子ハンターに向けて別れの録音テープを残し、ホテルを出る。そして、再度、あのいかがわしい建物に入っていく。ジェーンを指名したトラヴィスはマジックミラー越しにジェーンと向き合う。トラヴィスは受話器を取り、二人の間でしか共有できない事柄を淡々と話し始める。トラヴィスの姿が見えないジェーンは、次第に向かいの男性がトラヴィスであることに気づく。そして、トラヴィスが今もどれほどジェーンを愛しているか、そして、それでももう元通りには一緒に暮らせないことを告げると、ジェーンの頬をゆっくりと涙が伝う。このシーンは、最もいかがわしい場所で交わされた、最も美しいラブシーンだろう。最後に、ハンターの待つホテルのルームナンバーを伝えると、ジェーンの追い縋る声を残して、トラヴィスは受話器を置く。そして、約束の地、テキサス州のパリへひとり旅立って行く。

ポストモダン、彷徨える「放浪者」

 大まかなあらすじを述べてきたが、ここからはこの映画の時代背景とほんの少しの思想的な意味について考えてみる。1984年に公開されたこの映画は、謂わば、ポストモダン花盛りのアメリカを舞台に撮影されている。時代背景としては、神の死=父性不在の時代でもある。ここで、ニーチェの『善悪の彼岸』から二箇所ほど引用してみたい。

…このプロセスとは、ヨーロッパ人の近似同化ということであり、風土的に階級的に制約された人種成立の諸条件から、ますます離れてゆくということである。すべての人間には彼の属する特定の環境があって、それが数世紀のあいだ同じ要求をもって彼の心身にその特性を刻印するものであるにもかかわらず、この特定環境からますます独立してゆくということである。すなわち、本質的に超国民的な一種の遊牧民がしだいに出現してきていて、かかるタイプの人間はその典型的な特徴として最大限の順応性と順応力をもっている。 

…すなわち、現代のさまざまの条件は、平均して人間の平等化凡庸化を招致し――有為な、勤勉な、何の役にでもたつ畜群的人間を生みつつあるが、この新しいさまざまな条件はまた逆に、もっとも危険にもっとも魅力ある性質をもった例外的な人間の発生を促すものである。…そして、かくのごとき未来のヨーロッパ人を総体的に眺めると、それは、多種多様な、意志薄弱な、何の役にでもたつ勤労者であって、かれらは日々のパンを要するごとくに支配者命令者を不可欠とする。

 19世紀の思想家ニーチェはここで未来のヨーロッパ、及び、アメリカの姿を予見している。言うまでもなく、ポストモダン思想はニーチェに端を発していて、確かに、ポストモダン社会において人間は「近似同化」していき、「畜群的人間」に成り果てているように思われる。ある意味、それはディストピアですらある。そこで、この映画の主人公トラヴィスを、ニーチェのいう「超国民的な一種の遊牧民」として見てみるとどうだろう。それを「超国民的な放浪者」と言い換えてもいい。ニーチェの言葉に反して、トラヴィスは「順応性と順応力」には欠けている。しかし、1984年という神の死=父性不在の時代に、「順応性と順応力」を持たないトラヴィスはどこからともなく「超国民的な放浪者」としてアメリカ社会に出現した。トラヴィスを一種の時代の逆行として見ることはできないだろうか。

 この映画における「パリ」は、文字通り単純にテキサス州のパリと見ることもできるが、「パリ」をヨーロッパのメタファーとして見ることも可能だ。トラヴィスにとって、テキサス州のパリは約束の地であり、自らのアイデンティティーが帰結する場所である。それと同時に、トラヴィスが社会的な父親としての立場を捨て去り、「放浪者」として回帰するヨーロッパでもある。しかしながら、1984年といえば、アメリカはもとよりヨーロッパもまた、神の死=父性不在の時代、つまり、ポストモダンの時代なのだ。よって、トラヴィスにとって本当の意味で帰還すべき場所、ユートピアはどこにもない。かのように、アメリカとヨーロッパの狭間で引き裂かれたトラヴィスの魂は「放浪者」として彷徨い続ける。まるで、永遠に辿り着けない約束の地を探し求めるように。あるいは、「さまよえるオランダ人」の魂のように。