【エッセー】死者の幻影と記憶

 父方の祖父が他界したのは、確か、七年前だったと記憶している。

 当時、私は神奈川県川崎市にある古臭いシェアハウスの四畳半の部屋に住み、渋谷にあるおっぱいパブのボーイをしていた。当然だが、求人雑誌にはおっぱいパブなどとは書かれておらず、私はてっきりキャバクラのボーイだと思って応募したのだ。ニ、三日、仕事をしてみて、私はなぜ女の子たちがキャバクラではなく、おっぱいパブで働くのかさっぱり分からなくなった。おっぱいパブは、店内こそ暗いものの、キャバクラと同じように客はお酒を飲み、女の子はその接待をしなければならない。そして、サービスタイムという馬鹿げた時間になると、ボーイがマイクで卑猥な言葉を大声で連呼し、女の子たちは一斉に上半身裸になる。その時間内に客は酒臭い口で女の子にディープキスをし、おっぱいを揉みまくるのだ。それだけの仕事量をさせられながらも、女の子の時給はキャバクラとたいして変わらない。

続きを読む

【詩】◯の音

遠くインドの広場では、
シタールの風にあわせてタブラ奏者の手が機械へと
その傍では恋人たちが踊り出し、
彼の視線の先には恋焦がれる透明なあの娘の姿が
タンタン、タタタタ、タンタン、タ◯タタ
タタタタ、タタッタ、タタ◯タ、タンタン
◯はタブラ奏者の魔法の打音、
その音で彼は一瞬間、あの娘の姿を見つけたのさ

続きを読む

【エッセー】長崎原爆の日、キリスト教のアンチノミー

 私の故郷、山口県周南市(旧徳山市)では、8月6日の午前8時15分と8月9日の午前11時02分にサイレンが鳴り響く。これがいつ始まったのかは知らないし、他の市町村で同じようにサイレンが鳴り響くのかどうかも知らない。それでも、私はものごころついたときには、8月に二度鳴り響くサイレンを当然のこととして聞いて育ってきたような気がする。子供の時分に、広島市平和祈念公園、及び、平和記念資料館へ二度ほど、長崎市平和公園原爆資料館へ一度、両親に連れて行ってもらったことがあるから、このサイレンを聞く度に、両資料館で見たモノクロ写真や遺品などが脳裏をかすめ、頭が混乱してしまうこともしばしばあった。

続きを読む

【エッセー】真夏の熱さと閃光、そして老婆の思い出

 路面電車から見える窓外を現代的な都市の風景が流れていく。私はふと流れているのは自分なのではないかと思案するが、もう一度考え直してみると、まったくそのとおりなのだった。たとえば、今、コンビニ前で煙草を吸っている男性がいる。彼は瞬く間に流れて行ってしまったが、彼にしてみると、瞬く間に流れて行ったのはまぎれもなく私であり、おそらく、彼は私の顔すら見てはいないだろう。そう考えると、見る者と見られる者の関係、あるいは、移動する者と留まる者の関係は、とても理不尽であり、そしてどこか物哀しい。

 八丁堀交差点を過ぎたあたりから、路上を歩く人が多くなり始める。私はそれら群衆と呼ぶには少々物足りない人たちが、窓の外を過ぎ去っていくのを、吊り革に掴まってぼんやりと眺めている。そして、あっ、と声を上げて、ひとりの老婆を見逃してしまった。一瞬、私の網膜に焼き付けられたその老婆は、確か、つばの広い黒い帽子を被っていて、灰色のカットソーのようなものを着ていたはずだ。私は記憶の迷宮を探ってみる。しかし、その老婆は、私の大脳皮質には保存されてはいないようだった。つまり、思い出せないのだ。そうなると、私の頭の中は老婆のことでいっぱいになり、今度は、流れて行く風景を忘れてしまった。

続きを読む

【論考】安保法案、そして革命、《宏大な共生感》へ

《宏大な共生感》という希望のジレンマ

  大江健三郎は1959年に刊行された小説、『われらの時代』の中で、《宏大な共生感》という言葉を多用している。それは、主人公の南靖男によってこのように述懐される

希望、それはわれわれ日本の若い青年にとって、抽象的な一つの言葉でしかありえない。おれがほんの子供だったころ、戦争がおこなわれていた。あの英雄的な戦いの時代に、若者は希望をもち、希望を眼や脣にみなぎらせていた。それは確かなことだ。ある若者は、戦いに勝ちぬくという希望を、ある若者は戦いがおわり静かな研究室へ陽やけして逞しい肩をうなだれておずおずと帰ってゆくことへの希望を。希望とは、死ぬか生きるかの荒あらしい戦いの場にいるものの言葉だ。そしておなじ時代の人間相互のあいだにうまれる友情、それもまた戦いの時代のものだ。今やおれたちのまわりには不信と疑惑、傲慢と侮蔑しかない。平和な時代、それは不信の時代、孤独な人間がたがいに侮蔑しあう時代だ。《宏大な共生感》という言葉をかれはフランスの中年の作家の書物からさがしだして覚えていたが、それも戦争のイメージ、暗い夜のむこうにとどろく荒あらしい海の襲来のようなイメージとつながるものなのだった。ああ、希望、友情、《宏大な共生感》、そういうものがおれのまわりには決して存在したことがない。おれは遅れて生れてきた、そして次の友情の時代、希望の時代のためには、あまりにも早く生れすぎたのだ。

続きを読む

【エッセー】山口連続殺人放火事件に想うこと

 2013年7月21日に起こった周南市金峰(みたけ)連続殺人放火事件、俗にいう、山口連続殺人放火事件の判決が、2015年7月29日に山口地裁で下った。結果からいうと、保見光成被告には死刑判決が下されたわけだが、それは、おそらく、多くの人が予想していたとおりの結果だったのではなかろうか。私は裁判を傍聴こそしていないものの、日々、テレビのローカル・ニュースで報道される裁判の過程を、ある意味、絶望的な心地で観ていた。もちろん、5人を殺害し、2軒の放火を起こした保見被告に同情の余地はないだろう。しかし、それでも、この事件と、保見被告が犯行を起こすまでの経緯、そして、裁判の結果は、絶望的としかいいようがない(事件の経緯は先にリンクしたWikipediaで読んでいただきたい)。

続きを読む

【論考】世間からの逃走、観光客、そして記憶

はじめに

 正宗白鳥明治41年に発表された代表作『何処へ』の小説内で、世間という言葉と、社会という言葉を併用している。明治10年に社会という言葉がSocietyの訳語として充てがわれて約30年経過した後にである。この一例だけで明治以来の作家たちの混乱を言い表そうとは到底考えていないが、私見ではこの混乱は現代においても尚続いているように思われる。

 言うまでもないが、社会というものは主体的な個人に依って立つ。阿部謹也『「世間」論序説』によると「日本でindividualという言葉に〈個人〉という訳語が定着したのは明治17年(1884 年)頃であり、〈社会〉という訳語に遅れること7年であった」という。西欧における個人(自我)の誕生に大きな役割を果たしたのは教会での「告解」である。人びとは司教に罪を告白することで次第に自身の内面を確立し自我を発達させていった。その結果、紆余曲折を経ながらも西欧において主体的な個人が誕生したのである。

続きを読む