【音楽】尾崎豊/永遠の胸

 印象的なギターソロから始まる尾崎豊の「永遠の胸」は、1990年にリリースされた20代の尾崎豊の集大成ともいえる二枚組アルバム『BIRTH』に収められている楽曲である。7分47秒という楽曲の長さもさることながら、その雄大なメロディーラインと、少しの切実さと憂いの入り混じったダイナミックなボーカル、これらが調和されたスケールの大きな一大叙情詩のような楽曲となっている。尾崎豊といえば、10代の間に3枚のアルバムをリリースし、その反抗的な歌詞によって、デビュー時から若者のカリスマ、若者の教祖などと、マスコミに半ば揶揄され、半ば称賛されていたシンガー・ソングライターだが、20代に入ってからの楽曲群はそれほど評価されていない。ここで尾崎豊について語る気はないが、20代の尾崎豊の楽曲の素晴らしさを、少しでも紹介できればと思っている。

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【音楽】中島みゆき/時刻表

 中島みゆきの楽曲群の中に、ひっそりと佇んでいる名曲がある。「時刻表」という曲だ。中島みゆきの歌声もどこか淋しげではあるが、ありふれた人間像を歌いながら、自身もまたありふれた人間のようである歌い手の絶望的な淋しさが木霊するような曲である。サビの部分で唐突に「海」という言葉が出てくる。絶望的な淋しさを示唆した後に歌われる「海」は、ある意味では、自殺という行為の外示として解釈することもできる。曲は歌い手が時刻表を見上げて、次の朝まで海へ行くのか行かないのか(あるいは、行ったのか行かなかったのか)、結末を曖昧にしたまま終わる。

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【書評】「飛び降り」「幽霊」――『セックスの哀しみ』より/バリー・ユアグロー

はじめに

 超短編の名手、バリー・ユアグローの著書に『セックスの哀しみ』という超短編集がある。セックスに纏わる人間の悲哀を、ときには直截的に、ときには隠喩的に、ユーモラスに描いてみせる、そんな超短編集だ。その本の中に、「飛び降り」と「幽霊」という二つの超短編がある。題名から「死」を連想させるが、バリー・ユアグローは「死」をモチーフにした超短編も多いし、「死」を探求してきた小説家だといってもいい。ユーモアとは静謐さと若干の秘密を必要とする。「死」は、人間にとってもっとも静謐で、秘密めいている。

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【エッセー】真夜中のプールと青春と自由であること

 村上龍の処女作、『限りなく透明に近いブルー』の中に、主人公である僕とリリーがラリった状態で、雷雨の中のトマト畑を這いつくばるシーンがある。二人はラリっているため、トマトを爆弾だと言い張ったり、トマト畑を海と錯覚したりする。このシーンは、ドラッグによる錯乱を表現しているが、錯乱状態ゆえに、主人公の僕はプールに飛び込むことができない。リリーの発した、「あなた、死んでしまうわよ」という言葉が示唆するように、この小説は、ある一線を越えることができなかったがゆえに、小説として成立することができるのだ。後に、村上龍自身が語っているように、小説とは、ぎりぎりのある一線を越えることができなかった人間が書くのだろう。本物のジャンキーは小説を書かない。

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【映画】イヌミチ

はじめに

 2014年3月に公開された万田邦敏監督の映画「イヌミチ」は、セックスシーンのないロマンポルノという謳い文句のとおり、イヌと飼い主という主従関係を、サディストとマゾヒストの関係性に置き換えた、観念的なセックスをテーマとした映画である。ただ、「セックスを介在しない男女の肉体関係は、イヌと飼い主という関係性だけかもしれない」という思索には、やや、疑問がある。ここで言われている「肉体関係」が、肌と肌の「ふれあい」程度の肉体関係であるならそれは理解できるが、官能的な男女の「肉体関係」は、やはり、日常生活においては隠されている、あの陰部と陰部の密着以外にはありえないのではないだろうか。それでも、この映画は、官能性の表現という意味では成功している。もちろん、観念的な意味として。

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【即興詩】水平線のあっち側

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水平線のあっち側に果てがあると信じていた頃、
僕の意識はまだ海とおなじで、波間をゆったりと泳ぎながら、
しきりに砂浜の両親を振り返る。
クロールであっち側の果てまで泳いでいけると、
僕の身体、意識、太陽、それら全部が海だった。
やがて、海の底に脚が届かなくなったとき、
振り返った砂浜はもうさっきとは違う風景で。
結局、僕は水平線のあっち側の果てを知ることはできなかった。
そうして、今、僕は海を眺めている。
変わったのは、海ではなかった。
沖合いに停泊しているタンカー船、彼ら船乗りたちが、水平線のあっち側に消えていくのを知っている今、僕は昔日、振り返った砂浜が違う風景であったこと、その意味の知とともに、海と訣別した。
まるで、母胎との永遠の別離のように。

【映画】共謀者

はじめに

 黒幕がごく自然な登場人物を演じながらも、最後にその正体を露わにして、それまでの過程を覆すという手法は、名作「ユージュアル・サスペクツ」を持ち出すまでもなく、サスペンス映画ではよくあることだ。さらに、アウトローな犯罪者が義理と人情に弱く、自分自身が社会の屑であることを自覚しながらも、最低限、ここを越えてはならないというルールを自分の中に定めているというのも、レイモンド・チャンドラーの探偵小説群を持ち出すまでもなく、古典的なアウトロー像だろう。2013年6月に公開されたキム・ホンソン監督による、実際の臓器密売をもとに製作された本作「共謀者」には、救いというものがない。古典的なサスペンス映画の手法をとりながらも、犯罪者であるアウトローたちの情けと義理に絡んだ善意は、徹底的に裏切られ、黒幕は最後まで胡座をかいたままだ。サスペンス映画における黒幕は、謂わば、神の視点を擁している。おそらく、本作における神は、悪魔と言い換えても過言ではない。権力と金に憑依された悪魔は、いつの時代も、私たちの知らない闇社会で高笑いし続けるものだ。心を持ってしまったアウトローな犯罪者たちは、その闇社会では、裏切られ、抹殺される他ない。それがこの世界の虚しい現実なのだろう。映画「共謀者」は、その真実を痛切に突きつけてくる。

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